依存症
依存症
「いそんしょう」と読むのが正しいとのこと。
NHKが取り上げたりと、最近何かと治良室もで質問されることが多いので、ちょっと調べてみました。
「中毒」と一緒くたにされることも多いのですが、最近では生物学的な毒性の結果を示すそれとは区別されているようです。
さてこの依存症ですが、その主なメカニズムにはここでもたびたび取り上げている「報酬系」という脳内システムが強く関与していると考えられるようになっています。
中脳腹側被蓋野(VTA)という部位に始まり、ドーパミンという物質によって興奮する(=活動電位を生じる)神経核群を指します。
現在わかっているのは側坐核、扁桃体、視床下部、海馬、帯状回、前頭連合野などです。
これらの神経核及びそのネットワークが形成するシステムは、私たちを最も虜にする快感をもたらし、これに関連して生存に有利である思考行動を学習させるという側面ももっています。
ドーパミン(チロシンから合成させるあまり大きくない分子)そのものにはもちろん「快楽物質」としての特性はありませんが、快楽(というよりは強烈な快感)をもたらす神経核がこの伝達物質によって作動する特性を持ち、またその結果それをメモリー、学習するというシステムを作り上げているため、それが行動思考の動機付けになるとされています。
現在ではこの「脳という臓器が最も喜ぶ刺激を渇望しつづけ、そのためには犠牲を厭わない状態」を依存症と呼び、医療機関での治療が必要であるとされる疾患の一つとして認識されています。
さて依存症と言えば「飲むうつ買う」です。
アルコールを含むドラッグ、ギャンブル、恋愛を含む性行為がその代表とされます。
正確にはもっと細分化されていますが、それらの背景に関わるのがこの報酬系という脳内システムであり、脳という臓器に逆らえない我々の特性を考えると、なかなかやっかいな問題ととらえるべきでしょう。
さてでは、なぜ我々は報酬系というシステムを、下手をすれば体を壊し人生を棒に振るかも知れないリスクを背負ってまで活性化させようとするのでしょうか。
快感には勝てないから、と言う説明もそれなりに説得力があるのですが、なにゆえそこまでかと言うことに対して私は次のように考えるようになりました。
たとえばここに代謝の低い、体調のいまいち安定しない人がいたとします。
代謝が低いが故に起きる不調感を解消あるいは紛らわすために、その人はよく運動(負荷をかける)をするという方法がよいと実感しました。
端的に言えばミトコンドリア(エネルギーを作る工場みたいな細胞内器官)の効率を上げるためにはこのアプローチが最も効果的です。
結果、代謝や体温も上がり、酵素の反応率も上昇するでしょう。
たいていの人はしばらくの間これで体調が上がったことを実感するはずです。
しかし、です。
運動(=刺激)というものは継続するといずれ慣れてしまい負荷にならず、次なる段階の負荷を必要とする時期が来ます。
強度を上げたり時間をかける、あるいは可動部位や状態を変化させることで新たな負荷をかけて刺激を作り出そうとします。
つまり以前の運動では根本的な改善を図ることができなかったわけです。
その原因の大半は「体の運営システムの非効率状態=組織同士のネットワークが不安定」という図式が治良師的には浮かびがります。
体をきちんと使い切っていないが故の起きるのですが、その背景は様々ですのでここでは触れません。
そしていったんその方法(運動による代謝上昇)で成功した人はその延長上で次の性向を模索する傾向があります。
この(割とよく見る)一般的な方向性を脳の反応に置き換えてみます。
脳も他の組織と同じく糖を取り込んでアデノシン三リン酸を作り、それを活動エネルギーにしていることには何ら変わりがありません。
そしてその働きは制御に特化し、神経核同士がネットワークを作り、相互に最適化を行うことで稼働しています。
このネットワークはそれぞれ「~系」と呼ばれるシステム間で特化した反応をやりとりし、それによって生じる「生存に有利な行動思考を導く」という方向性を維持しています。
またネットワークはそれがより大きなウェブを作ることにより効率化され、各々の神経素子としての負荷を小さくできることになります。
よく「頭がきれいに動いているときは各部位の活動量は小さい」という話を耳にしますが、これは生体全般にいえることで、効率的であると言うことは平穏度が上がると言うことと同義となります。
逆に言うと各部位の負荷が大きく、脳全体の効率が低下している状態は全体としての(組織)代謝は落ち、神経細胞という組織にしてみれば、特に刺激がその維持に必要であるという特性を考えると、脳全体ではずいぶん落ち着かないはずです。
この状態を別の角度から見てみると「一部が必要以上に働き、他の大部分は活動が(神経細胞にとって困ったレベルまで)下がった状態」とみることが(比喩的にではありますが)できます。
さて先ほどの体の例と照らし合わせて、この「非効率的な脳」に必要なものを考えると
答え:落ちつきのなさを補う刺激
が適切なように思われます。
脳の健全な活動に必要な刺激量が確保できない(ひどい言い方をすると”脳のほとんどが退屈している”状態)、あるいはその質(ネットワークを効率よく働かせうる刺激の行き渡り方)が不十分であるとき、私たちの脳も何らかの“運動”を思考するというのは考えすぎでしょうか。
これは一つの例えかも知れませんが、脳全体の代謝を上げて(興奮を惹起させて)非効率さをごまかすと言うアイデアは、その特性から極端に離れた戯れ言ではないように私には思えてなりません。
そして最も快楽を伴う、言い換えると私たちが好む興奮のさせ方が「報酬系に絶えざる刺激を供給する」コトなのかも知れません。
仏教概論でしつこく述べた釈迦の苦しみはきっと「脳の退屈がもたらす自我のもてあまし」がその正体で、その解決方法が「脳内のきわめて効率的なネットワーク稼働状態の実現」であるとするのが、現時点での私の結論になっています(とはいえ自分では今のところ実現できていませんが(笑))。
これはいわば「脳内で発生する、外的刺激に寄らない愉悦産生反応を維持し続ける」ことであり、釈迦の達した覚りとはいわば脳内自給自足を実現した状態と言うことができます。
覚る必要があるかどうかは個々人の判断でしかありませんが、一過性の快楽を伴う刺激(ドーパミン作動性の反応は同じ外的刺激では維持できない)にたより脳の代謝を上げ続けることは、生物学的にはきわめて困難であると推測されますから、ドーパミンが私たちの生存維持を動機づけてくれるとするなら、覚ることも一つの答えといえそうです。
現実的には乗り越えるべき目標の絶えざる設定などにより、生体の宿痾である「刺激への慣れ」を回避する工夫を怠らないことでしょうか。
さらにそのためには「なぜ生きているのか=死を回避する基本的な性質」によって背中を押されている事実を把握、納得しすることが必要となる。
私はそう考えます。
依存症はその強烈な快楽、そしてそれを得られなかったときとの落差、さらに達成されるかも知れないという期待が惹起するシステムの過剰な反応がもたらす脳内物質によるオーバードースのような状態です。
これを乗り越えるのは、私たちの特性上非常に高いハードルをいくつも乗り越える必要があります。
頭の中が忙しすぎるようでいて、全体としては十分な刺激が行き渡らず、実は「さらなる刺激による脳の代謝アップ」を求める反応。
依存症の背景の一つなのかな、と考えます。