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仏教概論

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仏教概論

全くもって信仰心のない私ですが

「信仰がもたらす心理状態が治良には必要不可欠」

と現時点では結論づけております。

ならばとっとと何かを信仰してみればよいのかもしれませんが、どうにもこうにもそういった方向へ興味がわかないので困り果てております。

治良時、私にとって最もやっかいなのは「医学的には~であるはず」という思い込みですが、何かを強く信じられる人はこの「常識的な判断」から遠いところに位置することができます。

要は余計な判断をせずに(最近はやりの言葉を使うなら)「ありのまま」を観察し続けられるのであればよいわけですが、雑念だらけの私にとってもそれこそが最高に高いハードルだったりもします。

とりあえず信仰以外に心理状態適正化の方法論が見つからない現在、工夫しながら日々「疑似信仰モード」でがんばっております。

さてそんな不信心ものの私ですが、「どうして宗教は生まれたのか」と時々考えています。

呉智英著つぎはぎ仏教入門は私のお気に入りの本ですが、ここに「”死後の恐怖”に対抗するために生まれたのが宗教である」とあります。

生物に共通の反応として「死を可能な限り回避する」があります。

これは(おそらく)微生物から我々人間までの共通した反応、行動原理であると思われます。

エントロピーに逆らうように再組織化=生存のためのエネルギー消費を繰り返すのが生物であるとある意味定義できますが、これを終わらせる様な方向、つまり「死という方向」を回避すべく方向付けるものこそが「本能」といえるかと考えます。

ただ、微生物あるいは脳を十分に発達させていない生物には起こりづらい我々特有ともいえる考えに「死後の恐怖」があります。

これは蒙昧の一種といえますが、一方では肉体消滅後に自我はどこに落ち着くのかという“知的興味”は、私たちのように知能を武器に生きている生物にとっては相当重要な関心事、といえるでしょう。

死が生理活動の終焉を意味するなら、それと同時に来る自我の喪失こそが「死後の恐怖」の背景であると私は考えます。

「今自分はここに存在する」という思いこそが自我の本質ですが、当然ながら考える機能を持った脳の活動停止とともに消滅します。

魂や前世といったものを信じていない人間にとっては、それ以降のあれこれは「あるわけがないから考えても仕方ない」で終わります。
恐怖は残っても、です。

しかしいつの頃からか、私が読みかじった本の多くには相当古くからとありますが、私たち人間は「自我喪失の恐怖」に苛まれ、いやとりつかれるようになってしまいました。

おそらく宗教というのは、それを背景に生まれたものであると思われる、というのが呉氏の主張の様に私には思えます。

生き物として絶対に避けて通れないプロセス(?)とセットになっている恐怖感を、魂というものに死後の自我(という表現も変ですが)を託すことで和らげようとしたのだろうと推測します。

さて、ど素人の私がその手の情報を総合してみたところ、その恐怖の回避の仕方も地域や人種によって少しずつ、あるいはかなり違うことがわかりました。

日本の土着ともいえる宗教(と呼んでよいのかわかりませんが)である神道は、ある種の循環論的なとらえ方をしており、自我は神の一部が分離され肉体に宿った結果発生したものだからからして、死後はそれらが還元され(当然自我もうやむやになって)神なるものに吸収される、としているようです。

対して一神教のほとんどは自我をもう少し「現世的な」とらえ方でみているようで、死後自我をまとった魂は行いに応じてしかるべきところに振り分けられ「相応の死後」を営む、と考えているところが多いように見えます。

そんな中、見聞きした限り最も論理的(見方によっては冷徹)なのは仏教ではないかと私は考えます。

現代日本で目にするそれはかなり変わり果てたものになっているようですが、上記の呉氏の著書をはじめとする本が解説するそれは、開祖である釈迦が徹底的に自分個人の悩みを解決する方向で思索を重ねてきたものであることを示しています。

ブッダはなぜ女嫌いになったのか (幻冬舎新書) なども間接的に「自我をもてあました若き日のゴーダマシッダールタ」を著しています。

自我をもてあますというのは、「自分だけが」という発想が正常な判断を脇に押しやった状態といえます。

周りが見えていないともいえますが、これは案外、というかかなり苦しい状態であります。

落ち着いているときならば俯瞰できることも、こうなってしまうと何も受け付けなくなってしまう。

訳のわからない不安や恐怖に常に攻撃されている気分といえば良いのでしょうか。

正体がわからない分だけ不安は大きいと思います。

食べる眠るという生理的な条件が満たされないのはもちろん最大限のストレスといえますが、このもてあました自我による脳への負荷というのも違う意味での「強大な敵」ともいえる存在でありましょう。

ついでにいうと結構な割合でこの状況を招くのが人間であるというのが私の実感です。

さて仏教の開祖仏陀(ややこしいので以下“釈迦”と表記)は、とにもかくにも「自分の悩みを何とかしたい」と日々懊悩していたようで、ついには家族も家督も捨てて(これは当時のインド社会ではかなり異端)自分の悩みを解決する方法を手に入れる旅に出ます。

ある種の社会不適合な行動といえますが、強烈なまでに頭のよかったと思われる釈迦にそう決断させたくらい、内面の悩みは彼を脅かし続けていたのでしょう。

現代のような情報をあちこちから拾ってこられる時代と違い、当時のインドでは従来から身近にある宗教の教えに従うというのが唯一無二の選択肢だったのではと推測します。

釈迦の時代といえば輪廻転生を前提に組み立てられた宗教が多かったようです(未確認ですみません)。

ですが考えてみるならこの「人の生は苦しく、それは未来永劫続くいつまでも終わらない苦行」みたいな考えを中核とした理論は、古代インド人でなくともいやになりそうなものだというのは容易に想像がつきます。

インドでは現在でもたくさんの人が日本人には理解のできない苦行にいそしんでいるといいます。

よくわからない行動にしかみえませんが、それでも連綿と受け継がれ、実際に身を投じている人がいることには感銘さえ覚えます。

釈迦も当然これら古代インドに存在した宗教、神話の影響を受け、最初は死ぬ寸前の負荷を自ら作り出して「修行」していたようです。

しかしやはり彼は歴史に名を残すほどの非凡さをもっていたようです。

少なくともそこに「自分の悩みを解き下す何か」がないと考えた釈迦は苦行から身を退き、理性全開で考え続けた結果、どうやら「悩みに振り回されづらい気持ちのよい状態=悟り」があると気がついたようだとあちこちの本に書いてあります。

この大脳生理学的に「きわめて高度にバランスされた興奮状態の持続とこれによる悩みの解消」を知ってしまった彼はまた、同時に「これを言葉で話してみてもわかるはずもないな」と、自分だけのもので終わらせようともしたらしいのです。

神話として「梵天勧請によって流布を決定した」となっていますが、現実はどのような心理的な変化によるものだったかは私にはわかりません。

ともあれ弟子をはじめとして多くの人にこの考え、方法論を伝え始めた釈迦ですが、当然のようにいらつく場面も少なくなったようです。

ここでひとつ脳の生理的観点から悟りのことを考えてみます。

先に挙げたように、脳がきわめて高度に活動し、しかしそれが適正なレベルの興奮によって支えられているのが、いわゆる「悟り」の状態ではないかと、拙いながらも私は推測します。

私も一度ですがこのような状態になったことがあり、きわめて幸福な数日を過ごしたことを覚えています。

ただ生きているだけで楽しい。

心の底からそう感じられたのは、そしてそれが数日間にわたって持続できたのはそのときだけでした。

数日するとその状態は薄れはじめ、元の状態に戻りましたが、あの時のことを今の知識で考えると「ドーパミンやセロトニンが大いにかつ適正なレベルで出続けていたのかな」とみています。

同時にそのとき特徴的だったのは、行動の一つ一つに何も疑問や違和感がなかったことです。

意識と無意識の(ほぼ)完全な一致という現象でしょうか。

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉という本の中には「ゆっくりと繰り返す動作は意識と行動をシンクロさせるための訓練法」という意味の文が出てきます。

これはきわめて実践的な、そして現代的な考え方のように私には思えます。

実際、心理面のダメージを和らげる訓練法の中にはこのようなアプローチがみられます。

彼はすでに「アタマだけで考えるとおかしなことになる」という生理的な特性/弱点を熟知していたようです。

またそれは「体の動き(行)と意識が密接にリンクした状態こそが最も安定している」という結論を生み出し、上記のような「行の大切さ」を協調する背景になっているのでしょう。

かように仏教の論理性は緻密であり、矛盾を放置せずにとことんまで突き詰めてゆくその姿勢は、科学用語をちりばめただけのオカルティックな理論などは足下にも及ばない「科学性」を備えていると思われます。

話を少し進めます。

仏教の重要な中核理論に「十二縁起」という考え方があります。

私たちが思い悩むには理由があり、それは

間違った考え

それに基づく間違った行い

間違った行いによる間違った識別

それに基づく思い込み

そこから発生する感覚のエラー

それを持って行う外部との接触

そしてまたそれによる間違った感覚の認識

これらが妄執を生み出し

それは執着となり

自我が生まれ

生が成立する

としています(間違っていたらごめんなさい)。

そして生はすべての苦を生み出し、その滅とともに付随する悩みも消える、と読めます。

普段私たちがごちゃごちゃ悩んでいることそのものであり、脳味噌が機能停止になれば終わるという話であり、それはすわなち私たち人間の本質そのものの解説であるかのようです。

逆に言えば、私たち(少なくとも私)は当たり前のことをきちんと理解できておらず、最近はやりの愛至上主義も含めて妄執の虜になりがちだということになります。

そんな私たちはともすればまっすぐな道から外れてひどい目に遭いがちだから、常に偏らないようにしなさいと釈迦は主張しています(八正道)。

それが霊的に正しい、などという戯言ではなく、脳味噌というやっかいな支配者を常に手なずけておくために必須の状況がそれだという話なのでしょう。

これは見る人によって変わるという不安定な主張ではなく、生理学的な「真理」と呼べるかと思います。

ただおかしなことに、「だからこう生きねばだめだ」と続く理論が驚くほど氾濫しており、文字通りインド人(である釈迦)もびっくりな状況ではあります。

釈迦の教えに従って生きるのが「正しい」ではなく、日々煩悶したくなければこのように訓練を積むべきだという話なのに。

自分の内部だけにしか存在し得ない「心の苦しみ」は、時には食う寝るの心配をしのぐものであり、誰かが手をさしのべてくれても解決せず、ましてや神や仏が現れて導いてくれものでももちろん無く、あくまで自分で考え、実践し体得ゆかなければ解決し得ないと釈迦は考えたのでしょう。

治良家として感じるのは「まことに正しい」であり、なんて考察が行き届いた考え方だ、というものです。

仏教のすべて知っているわけではない私ですが、たどりやすさというかステップバイステップな論理性は好感が持てますし、生理的な問題を目の当たりにすることが多い私のような人間には身近に感じることができる考えでもあります。

また、完全に解明されているわけでもない体の働きは、解明途中であるが故に容易に問題を決めつけ絞り込んでアプローチするには不明な点が多すぎるという現実があります。

症状ではなく状態を見て方針を立てる私たち手技療法家にとって、状況(状態ではない)全体を可能な限り俯瞰鳥瞰することのできる心理状態は喉から手が出るほどほしいものの一つです。

考えれば考えるほど「仏教の指し示すところ」がそのありかのように思えてなりません。

以上概論というにはおこがましいですが、心という脳の機能の方向性を決める上で最も整備されたロジック/理論体系に思える仏教に対する私の考えでした。

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