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私たちはなぜ「考えて」しまうのか

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私たちはなぜ「考えて」しまうのか

また唐突におかしなことを言い出したな・・。

このサイトをよくお読み下さる方の大半はそう思われたのではないでしょうか。

例のごとく頭の中に生じた考え(妄想?)を整理するための書き込みであることをご了解の上お読みいただければ幸いです。

思い込みに屁理屈をつけて書き連ねたような仏教概論シリーズでしたが、仏教概論:番外編では「脳は意外と働き続ける」といったことを書きました。

まあ間違ってはいないけれど(いつものように)もうひとつうまく説明できないなあ、とぼんやり考えていました。

そんなところに先日自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心という本を読みました。

自閉症の少年(当時)が自分の内面を書いた本でしたが、なかなかおもしろい内容でした。

専門家ではありませんし、一冊読んだくらいで理解したつもりをしようとは思いません。

ただ「ああ、この子の頭の中はとても忙しくなりやすくて、ついつい安心できるパターンを大切にしてしまうんだな」と言うことは伝わってきました。

私も実はそのケが多分にあるようなので理解できる気がするのですが、ともかく思考を一カ所におさめておくことが難しく、いくら注意を払っても次の瞬間には別のことに意識が向いてしまうことがあります。

そんな私の頭の中を俯瞰してみるに、たくさんのデータが絶えず内部を通過し、それにいちいち対応しようとしている自分がいることに気がつきます。

いつもそうであるとは限りませんが、概ねそんな感じで頭の休まるヒマはあまりないのだなと感じています。

仕方が無いので好きな本を(それもお気に入りを繰り返し)読んだり、いつも治良のことを具体的に考えていようとします。

そうすることによって雑多な、自分の処理能力を超えたデータの流れとそこから生成される情報の波に飲み込まれるのを防いでいる感じがします。

何かに集中していれば余計なデータや情報に翻弄されることはないのですが、集中が難しいので安心できる枠組みを自分の中で見つけ、それにすがることによって何とか日常をやり過ごしている。

少なくとも私はそのように自分の内面の一部を定義づけています。

幸いこの仕事は自分の内面という、いくら探求してもその先が常にある領域を自分の納得ゆくように調べることが必須で、私のような人間にはとても安心して進んでゆける方向性をもっているといえそうです。

「で、あんたのまとまらない頭の中と仏教がどう関係するの?」となるわけですが、こんな風に考えてみました。

釈迦というというひとの人となりを多くの研究者の手による著書から推測するに、その卓越した頭脳は疑いのないものであるけれど、同時に案外傷つきやすい一面ももっていたと私には感じられます。

それは彼を取り巻く当時の状況、環境がそうさせたのかも知れないですが、おそらくは持って生まれた脳の特性=性格が大きく関わっているのかも知れない。

そんな彼はやはり頭の中が忙しくて、その大量のデータや情報が彼自身をいつも苛んでいたのではないかと考えています。

そこで彼はそれを何とかしたくて家を出て・・・・となったのではないか。

私は図々しいとは思いながら、自分の内面と重ね合わせてそう考えてしまいます。

しかしそこは歴史上屈指の哲学者。

私たち凡俗が「煩わしい事から逃れるためにあれこれ考える」のに対し、彼は「どんなデータが通り過ぎようとも平気な自分を目指す」方向へ行こうとしたわけです。

事実、釈迦のもくろみは見事に成功し、覚ったと同時に当時のバラモン教支配下にあったインド周辺の人間にとって最大の難問である輪廻からも脱出しえたわけです。

さて表題の「考えてしまう理由」ですが、脳が拾い上げる膨大なデータはそれだけで私たちを疲弊させてしまう可能性がありますが、ぼんやりしていると私たちはそのすべてを処理しようとしてしまいます。

よほど訓練された状態ならともかく、通常私たちはキャッチしたデータをすべて情報に組み直すことができず、知識や経験の中で似たようなパターンを探し出してはめ込もうとします。

その過程で今自分を不安定にする、言い換えると心の安定の隙を刺激する様なデータや情報を無意識のうちにカットしてゆくことになります。

理由はその方が俄然楽だから、というのが妥当な説明でしょう。

つまり私たちは知らず知らずのうちにデータや生成される情報を都合のよいように絞り込んでいることが多いと考えられます。

絞り込みの方法で最も簡単なのが「何かに集中する」であり、それはイコール考えるという行為そのものでもあります。

それでもだめなら考えるのを停止できるような、扱い慣れた動作を行いながら時間を過ごそうとします。

そうすることで脳のオーバーヒートを防いでいると考えられています。

さて捨てられたデータの多くは単に自分の安定を脅かすという理由で排除されたわけですが、その中にも実は現実に強く関わっているものもあるかも知れません。

というか多くはそうだと考えてもよいと個人的には考えています。

卑近な例えですが、自分の嫌いな人間(自分の内部の安定を損なうようなキャラクター)が仕事上重要なところに関わってくるケースなどでは、つい大切なことを聞き漏らしていると言うこともあるでしょう。

それが自分でわかっているならまだしも、意識外でシャットアウトしていることも少なくありません。

こうした積み重ねが現実の乖離を加速させ、結果的に生じた内部と現実の整合性のなさ(=無明)が私たちを苦しめることになります。

普通はここで「そんなもんだよなあ」と思うのでしょうが、釈迦はそこから自力で現実と自分の内面の整合性を失わないノウハウを積み重ねていったわけです。

その行き着く先の一つである「考えを生じさせなくともすむ状態」を手に入れ、データや情報の絞り込みという「都合の悪いことを無視するという悪癖」からの解放に成功したと思われます。

書いてみればなんだそんなこと程度の字数ですが、実際にこの心境に行き着くのは並大抵の努力では無理ですし、それを維持するのはさらに大変だったであろうと私などは思うのです。

せめて仕事の間だけは余計な考えを停止できる心境を維持したく、日々訓練と工夫の毎日です。

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