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仏教概論19

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仏教概論19

初期仏教において開祖仏陀釈尊は「理性を使って考え尽くせ」と繰り返し言って聞かせたと記録にあります。

唐突ですがここで中枢神経系の解剖学を。
私たちの中枢神経系の構造は下から

・延髄、橋、中脳からなる脳幹
運動制御に深く関わる小脳
視床下部や視床からなる間脳
・最も新しい大脳/脳梁

さらにこの大脳は

・辺縁系などの古皮質
・反射以上の制御を行う新皮質

となっています。

おおざっぱに言うと下部構造ほど発生が古く、言い換えるなら植物的動物的と言われる機能を担っています。
意識せずとも心臓や肺を動かし、消化や排泄を自動で行ってくれる。
そんな生命維持に最低限必要な機能は中枢の下部構造に大きく依存しています。

それに対して発生学上比較的新しく、高等と呼ばれる動物ほど発達している大脳は、記憶を参照しながら最も成功確率の高いルートをとるよう我々を仕向け、かつ将来に向けた展望を視野に入れながら予測を立てようとします。
もちろん大脳は脊椎動物にはすべて大なり小なりありますが、人間のそれは新皮質が飛び抜けて大きな割合を占め、他に類をみないほど発達しています。

さてこの中枢(特に新皮質)ですが

・体のことなんかお構いなしでとにかく脳自身だけが大切
・しかし制御以外の機能を中枢以外の臓器無しでは成立させられず、ひとまずそれなりに他も維持しようとする
・脳の中で起きたことだけが脳にとっての真実:事実とはどうあれ、です。

と以前からディスっているように我が儘極まりない特徴を持っています。
大変迷惑な話と言えましょう。

またその高度に発達した「考える能力」は

・放置しておけば扁桃体を中心に起きる”生きる上での不安恐怖の暴走”を助長もするし緩和もまたしかり
・緩和する働きはいわゆる理性というもので、鍛えなければなかなか発現しない機能でもある
・我々が脆弱な身体機能しか持たなくても他の動物を圧倒する能力

などを私たちにもたらします。

今まで仏教概論シリーズで書き殴ってきたことを改めて書いているわけですが、この稿では「考える」と言うことに焦点を当てて論じてみます。

そもそも「考える」とはどのようなことなのでしょうか。
そして何故に私たちは考える必要があるのでしょうか。

考える、は自発的行為なのか

以前書いたように、基本意識という現象はある種の後追い反応であり、意識不能なレベルで決定した方向性を映し出すモニターのようなものであると私は考えています。
考えるイコール意識できるであり、しかし意識できるイコール考えること、であるかどうかははっきりしませんが。

別の方向から見てみましょう。

私たちの脳内で起きている反応を考えるとき、その多くは“入力された情報(含む刺激)に対してどうするべきか”を自動的に選択することで生じるものを思考と呼んでいるように思います。
つまりある種の反射であり、基本的にどうすればより有利になるかという生存に対する欲求がその原動力になっていると言ってもよいでしょう。

ただ厳密に言うと反射と違い、入力に対して複数かつ複雑な記憶のリンク/ネットワークを形成し、その結果生じた選択肢をまた記憶を参照しながら選ぼうとする、つまり逡巡することが当たり前に起きます。
これはそのときそのとき、いや瞬間瞬間において「最善の選択基準」が変化することによって起きる、我々特有の面倒な現象です。

ある行動の結果、痛みとともに私たちの内部に格納された記憶があるとします。
この痛みがあるときは身をすくませるほどの学習効果を持つこともあれば、次の瞬間には「なんだあれくらい」といった程度にまで恐怖が少なくなる(これはモノアミン系の分泌状態によって生じ得ます)こともあります。
これらの“脳内状況の変化”は常に起きうるものであり、実際疼痛減衰システムや記憶逃避反応の長期化によって恐ろしい体験記憶が簡単に変質変容するのは、割とよく経験することであろうと考えます。

当然こういった記憶にも、反対に楽しくて心躍らせるような記憶にも、いくつもの“過去データ”による修飾や強化、あるいはごまかしなどが常につきまとい、記憶が必ずしも記録ではないという言説を実証することになります。

また私たちの脳機能が他の動物よりも長じていることに「予想を立てて計画する」という面があります。
これも基本は過去の経験から最も楽に目標を達成できるルートを選択できるという思い込みによって生じる、ある種の願望に近いものですが、やはり生存確率を可能な限り高めておきたいという本能に基づいた機能であることに変わりはありません。

こうしてみるに私たちが「思考」と呼んでいる現象は、必ずしも自発的と呼べるかどうかは疑わしく、単純かつ絶対的な戦略(死にたくない願望)に基づいた複雑な反射群とでも呼ぶべき現象のように思えます。
しかもその大本営は、実は古参の将校(脳の下部構造である脳幹や恐怖を促す間脳構造)であり、そこに突き動かされて複雑な計算と選択を行うのが大脳という「新しくていろいろ出来る新任司令」なのだろうと思わざるを得ません。

さてそんな前提で今一度「思考」を分解してみます。

1.闇雲にえさを確保してその日だけを過ごすには私たちの体は脆弱すぎる
2.集団を営むことが出来るくらいには脳が発達し、かつそれは死と死の恐怖から私たちを遠ざけるために役立つ
3.しかしその過程で生じる様々な記憶参照時の逡巡(生理、状況変化による記憶の意味合いの変化)という反応は、脳のリソースを“いたずらに”刺激し、このときの反応そのものを脳が必要とする傾向がある
4.そもそも様々な刺激に対する脳のリアクションは、基本的には過去の成功体験を追従しようとする、いわば近道の模索であり、それゆえに現状と適切にフィットする事例はきわめてまれである。
5.言い換えるなら刺激→思考は原則として「迷い」を生じる反応であり、その瞬間最も適切な選択を妨げる反応とさえ言える。

でははじめにでてきた理性とは何か。

上記3にあるように、私たちの脳はとても「考えたがり」であり、それはイコール悩まずにはいられない性質であるとも言えます。
ある種の薬物が依存性を作るように、私たちはナチュラルに「刺激による思考の発生」にとりつかれているところがあります。
この結果生じた「脳が自分自身の生存確率を上げ、かついつでも報酬系の活性というご褒美を受け取れるよう整備され、それゆえに脳自身によって強固に保護された経路」を私たちはとても大切にしようとします。
まるで既得権益を得た特定の人たちが、それを他の迷惑顧みずに手放そうとしない様によく似ています。
これを仏教では「自我」と呼びます。

自我は本能に突き上げられた大脳が作り上げた、実体をもたないけれども脳の欲望を満たすサーキットとして、それを脅かすモノ、コトを徹底的に排除しようとします。

まあそれ自体は生物として必要なことと言えなくもないですが、問題は生きている限り永久に刺激→自我強化→刺激・・・・を繰り返し、その崩壊(老病死)の恐怖が自我の肥大につれて指数関数的に膨らんでゆくと言う事実でしょう。

まさにゴーダマのシッダールタはこの「心の行き着く先」に耐えきれずに出家したと言えます。

内(自身の記憶同志が結びついておきる動揺)外(五感覚からの刺激によって生じる内部記憶の励起)の変動によって私たちの心(脳の反応)は常に右往左往しています。
極言すれば内外の揺れに対していちいち自動的な反応をしてしまうことが私たちの迷いの正体であり、しかしそれをストップさせるのは容易ではないどころか、そのままでは私たちの生存を危うくすらさせる方向性でもあります。
一方私たちはなぜ「考えて」しまうのかの稿にもあるように、決めつけによって事象を切り取った方が楽ではあるものの、その後必ず現実との整合性が低下して自身を苦しめるようになります。
脳を使うも地獄、使わざるも地獄。
ある意味最も生きづらい生物が私たち人間と言えます。

その解消にあたり仏陀釈尊はそれ以前にあった「痛めつけて心身を強く(本当は鈍く)する方向」から「自分を苛んでいる思考(当時は心の動き)の原因を追及する方向」へ敢然と自分自身をシフトしました。

その結果「どうも暑いだの寒いだの美味しいだの不味いだの、果ては楽しいだの苦しいだのと言う“感覚”に私たちは反射以上の複雑な反応を見せている。それが記憶となって目の前の事象に意味づけ(事象の決めつけ)を行う基礎になり、物事の本当の姿を正しくみることを妨げている。
だったらいちいち感覚に反応しないようにすればいいのではないのか?
まずは反応している一つ一つをよく観察して、その背景がどうなっているのかを得してすることからはじめてみよう。」と言う考えに至りました(だいぶはしょって書いていますけど)。

この本能に翻弄されない観察力と、それを持続させるための思考を方向づけるチカラを「理性」と言います。

ただ実際にこれを鍛錬するときに必要な注意は、その課程に起きる自己変容が目的ではないと言うことかも知れません。

たとえば脳の特定の部位、特に三次元空間に対する位置決めをしている神経核を損傷すると自分の身体感覚が外へ外へと拡がるような感覚を持つそうです。
どこまでも拡がる体のイメージは「宇宙との一体化」をもたらすかのような感覚を呼び込むそうで、陶酔感を伴い私たちを虜にすることもあるとか。
快感にはとことん弱い私たちの脳は、この損傷にともなう感覚を実感すると、その感覚を呼び覚ます行為(一般的には瞑想)なしではいてもたってもいられなくなります。
陶酔感もある種の刺激によって励起された「脳を振り回す反応」なので、理性とは対極にあることを憶えておく必要があります(理性を身のうちにしたければの話ですが)。

快でもなく不快でもない。
自分の心(脳)を虜にする反応にいちいち動揺せず、ただひたすらに内部の俯瞰しながら鎮める。
これを完全にものにしたとき、あらゆる事象に意味づけをせずに済むようになる。
釈迦の言う理性の働きを、私はそのように考えます。

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