主観と客観
主観と客観
日本人は論理性に欠けている。
よく聞くフレーズですが、本当だとしたらもろに日本人の私はどう理解すべきなのでしょうか。
私の好物であるリンゴを例に挙げて考えてみます。
と、その前に記憶についてのおさらいを。
記憶は記録(現実から得られたデータ)を自分の望むストーリーに沿って改変させ、つなぎ合わせて情報としたものであり、一つ想起されると関連している情報が引き出されるようになっている。
決して現実に忠実な描写をしたものでは無いので、正確性には著しく欠けるケースが圧倒的に多い。
また共有性もわずかで、感情(情感)とセットになっているため、相手に対する訴求性は部分的には極めて高いが、多くの領域では無いに等しい。
ただし脳内の安定に対する寄与度は絶大で、脳という臓器はこれ無しでは活動できないと言っても過言では無い。
記憶のおさらいはここまで。
さて、この「記憶同士のつながりでできあがった自分に都合のよい世界」を通してみた現実、つまり「改変されて自分よりに作り替えられた世界」を「主観」と言います。
これは極論そして一面的な見方をすれば「感情によって事象を評価すること」であり、脳の構造から言うとあって当たり前、無かったらどこかが大多数とは違う状態にあると言えるものです。
上の「リンゴ」を私の心象風景からみると
・酸っぱくて美味しい
・食べるとなんだか翌日調子がよい
・リンゴを食べている時って幸せな思い出が出てくる
・体のことを気にしなくてよいならいつまでも食べていたい(笑)
という評価をつけることになります(あくまで一部ですが)。
これらの脳内反応はその特性上、好き嫌い(扁桃体/大脳基底核)による評価とセットになっていることは上に書きました。
そしてそれらは自分の生存確率に関係した評価でもあるため、極めて強い感情が付与されることが多いのです。
強い感情は大方恐怖と地続きであり、警報系という他を圧倒する反応を呼び覚ましやすくなっています。
恐怖という警報系の感情が強くなると、他の記憶による思考を圧倒してしまう傾向があります。
さて私たち日本人は論理に弱いと言われています(以前そんな話を聞いたことがあります)。
感情に流されやすい、と言うロジックについて判断保留です(その根拠が見当たりません)。
ただ一つ言えるのは「論理の駆使を訓練してこなかった人が圧倒的に多い」と言うことでしょうか。
論理というのは一言で言えば「客観」であり、一般性のある分析に基づく意見と言うことになります。
またリンゴで考えてみます。
リンゴの形状や色にバリエーションはありますが、大方の共通認識というのは世界中で共有されていると思われます。
また成分に関しても極端に違いがあるというのはあまり聞かないので、こちらも大体が似たり寄ったりであり、共通認識があると言っても差し支えは無いでしょう。
さらに言えば遺伝子分析による分類も現代では可能であり、それらを通して「リンゴ」という物体事象の描写が可能です。
それは極めて共有性の高い、そして正確性をモットーとした分析であり、信頼性は高いと言えます。
ただし、原則として私たちの“現実”というのは、脳が解釈している世界なので、主観を抜きにした描写は実感や共感性にかけるきらいがあり、この手の話に慣れが無いとピンときづらい表現と言えます。
また論理は唯一の現実解釈装置である脳の「外」にある分析でもあり、元々が脳があまり使わない領域/サーキットを訓練しないと認識しづらい見方なのです。
つまり客観というのはそう簡単に心に響かない現実の捉え方だと言うことが出来ます。
日本人は一般的にこれらの訓練が苦手、あるいは伝統的におろそかにしてきたようで、議論は主観と主観のぶつかり合いに陥るケースが多いように見えます。
リンゴについてかたや「うまいし栄養あるしよい思いで出てくるし」などといい、こなたは「あんなくそ不味くて高くて親父に無理矢理食べさせられていい思い出ないし」みたいな反論している。
そんな「相手にわかるはずの無い解釈を吟味無しでぶつけ合っている」状態が日本人の議論であることは明白です。
だからこそ「相手の気持ちを忖度して(自分の気持ちとの共有性を探し)言葉以外のところで理解しようとする」のが日本ではよしとされるのではないか。
そのようにみています。
ただはっきり言うならばこれらの「思い込みを思い込みで理解しようとする」行為は、甚だ誤解を生みやすく、議論のとっちらかりに拍車をかけているのが現実では無いかと推測しています。
さらに近年における情報量の急速な増大とその処理の強制は、もともとリソース消費の多い感情処理をメインとする私たちの脳に甚大な負荷をかけ、結果として脳の疲労がもたらす現代的な病理を引き起こしていると個人的には考えます(あくまで個人的な解釈です)。
結論:日本人は論理的思考が出来ないわけでは無く、単に訓練が不足しているが故に主観で物事を解釈し、客観的な視点には納得しづらいという現状がある。
それだけならば(個人レベルでは)どうと言うことはないが、脳の疲労をベースとした「生きづらさ」がある場合、相手の言い分や自分の主張を「感情ベースの自分にしかわからない解釈」であると理解し、一端自分の外に出て「相手と自分の主張はお互いに接点が無い」ことを俯瞰してみる必要がある。
さもないと原則的に理解できるはずの無い相手の感情を理解しようとして、疲労がます一方になる蓋然性は極めて高いのです。
少なくとも治良師目線ではそのように考えます。
全員が全員感情由来の主張をぶつけてくるワケでは無いでしょうが、客観性に乏しい、あるいは共感や承認を求めてくるような言い方だと感じたならば、それは議論では無く単なる雑談だと考えない限り、相手の言い分や自分の中に吹き荒れる感情の嵐に飲み込まれやすくなると言うことを、頭の隅にとどめておいて下さい。