因果関係と相関関係
因果関係と相関関係
前稿主観と客観と少しつながっていますので併せてお読み下さい。
FBの方に転載した記事の中に「因果関係と相関関係」というお話がありました。
因果関係とは簡単に言うと「原因があって結果がある」と言うことになります。
大きな怪我、例えばひどい切り傷を負い、そこに痛みがある。
これは(ごくまれなしかも考えづらい例外を除き)「痛みの原因は切り傷(正確には損傷に対する免疫反応によるもの)である」と言うことが出来ます。
脳梗塞で機能不全や麻痺が起きたときも、珍しい症例をのぞけば障害と梗塞部位は対応関係にあります。
このあたりはそれほど議論をしなくても、多くのケーススタディや医学的知見がそのことを裏書きしてくれるでしょう。
高い再現性と客観性を持つ科学的なお話と言うことになります。
一方、相関関係というのは「AとBは何らかの関係がある」というお話のうち、Bを達成する要素が実はA以外だった、あるいはABの関係が突き詰めてゆくと曖昧である、というものです。
地球の自転が徐々に速度を増していることと、医学の発展の間には横軸を時間、縦軸を自転速度あるいは医学の救命率としたとき、どちらも右肩上がりで関係があるように見えますが、自転速度が医学に関わっているという話は論理的な証明ができません(私が知らない何かがあるだけかも知れませんが)。
つまり「医学の発展の原因は地球の自転速度増加ではない(が、相関関係らしきものを完全に否定できない)」という論理が導かれるわけです。
こうした「ものごとの正否」についてステップバイステップで詰めたお話を「論理」といい、科学理論は常にこうして「現実を記述する理屈(論理)を一つ一つつなげ、確かめながら発展してゆく」ものであり、同時に常にひっくり返される可能性を必須とするものであると言えます。
それ故に信用がおけるものであり、科学の対外的信条である「フェア」であることを担保しています。
ただこの特性故に検証不可な問題については議論の俎上に載せることすら出来ず、特に最近の傾向としては「シューキョー(宗教ではありません)」として十把一絡げで片付けられることになります。
一方相関関係のみを自説の根拠とした場合、すぐにあるいはいずれその理論は破綻します。
特に徒手矯正業界においては多いこれらの「論理の飛躍を伴った話の展開の仕方」は、たくさんの真面目なそして質の高い研究をあっという間に無駄にしてしまいます。
自分の支持したいストーリーがあり、それに合わせた話を議論(?)の中にもってくる。
最初に結論ありきというやつですが、その中に「フェア」であろうとする精神は見られません。
ただしこれ自体、必ずしも悪いことばかりというわけではありません。
誰だって無意識にそのようにイメージを作る、つまり生きる上で必須な機能であり当たり前の行為と言えなくもないのですし、またそうした”思い込み”が誰かを元気づけることも珍しくないのです。
しかし私たちのように対人サービス、特に長期的な健康問題に関わることが多い職種においては、その責務という点では褒められた行為とばかりも言えません。
時として人を助ける方向に向く「思い込み」が、別の場面では適切なアプローチを受ける機会を逃し、それが取り返しのつかないことに発展する。
そんなことだって探せばゴロゴロしています。
勘違いしていただきたくないのですが、自分に都合の良いストーリーの中に安住することは決して悪いことではありません。
ただこと健康あるいは医療サービスに関して言うと、大抵の“医学的科学的に認められないアプローチ”に関しては、十分に吟味あるいは注意をする必要があります。
最近はfMRI(脳の機能の一面をリアルタイムで描写する画像診断装置)などの進歩が著しく、そういった最新機器で描像された画像とセットにしたおどろおどろしい文章を開陳している例も結構あり、注意をしているつもりでもコロッと騙されることもあります。
あるひとはfMRIの画像を持ち出し、前頭葉の血流がほとんど無い画像を持ってある種の障害であることを強調していました。
しかし画像に対する前後関係が全くわからない上、画像のソース、対象人物をそのように診断した経緯、そしてどのような生理状態下(脳の血流は心身の状態に影響される)で撮影したのかすら不明なものでした。
またどのくらいのパーセンテージがこの主張に一致しているかもわからず、少し考えるならば全く意味の無い書き込みであることがわかります。
つまり因果関係はおろか、相関関係すらも怪しい書き込みなワケですが、多くの人がこの書き込みに賛同の意を表明し、影響力の強さを思い知らされました。
確かに上記の書き込みを行った方は、現在主流の理論論理を駆使して素晴らしい発表をたくさんされている方で、新しい潮流を作っていると私も思います。
しかし一度アイドル化(偶像化)してしまうと、その人を信じたいという心理が優先し、関わった人たちから正常な判断を奪ってしまうことを見せつけられた一例でもありました。
脳内物語を生きるのは当たり前のことで、決して非難されるようなことではありません。
また、悪意の有無にかかわらない「嘘」に騙されることも、社会的にはともかくその人の人生なのでとやかく言うことではないとも考えます。
ただしもしあなたが体の真実を、あるいは現状に対して有効なアプローチを知りたいと考えるのであれば、たった二つのことに注意を払って下さい。
一つはあなたの「勘」です。
これは意識(知識や経験、記憶によるマトリクス)の判断を通さない「必要なものを選択する反応」のことで、正しく使えばこれに勝る指針はありません。
二つ目はそれを「客観」によって検証すること。
意識は「嘘」をつきます。
正確には選択したモノやコトに対してその正当性を主張するための言い訳を作り出します。
これは記憶マトリクスとの整合性が脳内の安定には必要だからです。
正しい客観(=論理)は外部の意見や論理による検証が意識の言い訳を見破ってくれます。
どんな方法や考え方でも、それが自分にとって(出来れば周辺の人にとっても)幸せをもたらしてくれるならば問題ありません。
ただしそれがすぐに破綻する考え方や行き詰まってしまう方法論であったり、周囲の大切な人たちを苦しめるようなものは、やはり手を出すべきでは無いとも考えます。
そして自分の専門外のことは、そう簡単にベストの判断を下せないのが現実です。
相関関係をいかにも因果関係にように説明したり、あるいは弱っている状況(とても多いですよね)の自分が妙に納得させられるものは、ひとまず踏みとどまって疑ってかかるべきかと思います。
本当の「健康に必要な情報」というのは、高度になればなるほど簡単に説明できるようなものでは無く、せいぜい「これをしたときはこのような帰結が(医学的にあるいは経験的に)考えられる」くらいしか言えなくなってくるのですから。
断言するもの、権威を持ち出して説得しようとするもの、さしたるソースも無しに治癒率を誇ろうとするもの、そして相関関係を因果関係と勘違いさせようとするもの、などなど。
よくわからないものを押しつけてくる人間は少なくありません。
わからないものはとりあえず判断を保留する。
これも立派な「判断」であると私は考えます。