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仏教概論39

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仏教概論39

すごい長文です(まとめ下手)

改めて十二縁起を考える

原理原則には興味があっても、細かいことを覚えるのはとても苦手。
わたしの頭の性質を一言で書くならそうなるでしょうか。
脳という臓器が原則「自分の都合のよいように動く」、そしてそのその背景には内部にフィットしない考えを抑える、つまり余分なエネルギーの発生を極力避けたいという生物学的な理由がある。
我々の苦悩の原因はそこに(も)ある。
こういったことには興味津々でも、脳の解剖学的なことを覚える気にはほとんどならない。
教師とか指導者にはさっぱり向いていませんが、それで特に困らないのでそのままにしてありました。

一方で今まで散々初期仏教がどうのこうのと書いてきました。
そのたびに苦悩が一つ一つクリアになっていくようで楽しかったのですが、同時にきちんと細かい部分まで覚えているわけではないことに何となく引っかかりを感じていました。
ちゃんと理解すればもうちょい何かわかるかも。
動機はそんなところだろうと思いますがとにもかくにももうちょい“真面目に”勉強してみたくなった。
というわけで仏教の1丁目一番地である十二縁起について少し書いてみます(自分のために)。

十二縁起の始まりはここから

私たちの苦がどのように生成されていくかを当時の(ほぼ何もない)知見を元に、現代の脳科学から見ても驚くほど正確に説明したのが十二縁起です。
その始まりを無明と言い、現代風に言えば「認識の歪み」となるでしょうか。
ちなみに初期仏教で言うところの「苦」は必ずしも苦痛を伴うとは限りません。
脳を発達させてきた結果生じた「現実の把握が超偏っている」ことから起きる主に脳の対応のズレを指します。

さてでは改めて無明について
散々書いてきましたが、私たちは周囲や自分自身の状況をそのまま認識できるわけではありません。
あくまで自分の内部にあり、かつ実感を伴った或いは十分に理解習得したものとつながることだけを扱えるという特性を持っています。
感覚信号や過去の記憶とのリンクを持たない“情報”は、実は情報以前のデータでしかなく、ほとんどの人間はそれを認識しづらいのです。
これを逆に考えると私たちはいつもデータを加工して自分にわかるようにだけ情報化を行っているということになります。
つまりは“全然ありのままで受け取ってなんかいない”となります。
「自分の知りたいことを知りたいように知ろうとしている」のです。
これは性格がどうのこうのという話ではなく、脳の機能が勝手に作る本質的な蒙昧さがあることを説明しているわけです。
「これはこうなっているはずだ」という思いこみをベースに判断を下すのが脳という臓器。
なので原則的に私たちは外界も体内のデータも偏ったイメージに作りかえて「そういうもの」としている。
全部理解できないのでそのあたりは「テキトーに」ごまかしてつじつまを合わせる。
「予測」を行うためのデータベース作りでもあり、そこを通過し情報化された”非生データの連なり”です。
偏った情報を元に予測を立てるので現実からずれまくる。
それを検証することもなくまた前提として使う。
「現実を正確に知ることがない」という意味での無知。
釈迦はこのような認識の仕方を「無明」と呼びました。
これが「苦」の始まりであるともし、ここからの脱却法として正しく状況を認識するための方法論を展開し実践しました。

この無明が引き起こす私たちの無意識の行いを「行」と呼びます。
これは上記の予測→フィードバック→予測誤差修正→フィードバックというループの中で行われるバックグラウンド処理のようなもので、その結果が出力されることもあればそのままのこともあります。
言い換えるならズレた認識によるシミュレーションが自動的に起ち上がっている状況で、脳はこのバックグラウンド処理でデータベースを補強更新するので、この段階でさらにズレは大きくなる方向へ向かっています。

上に書いた「行」が繰り返された結果、データベースが既存のイメージや言語などと結びついて現状をぼんやり把握し始めます。
これを「識」と言います。
注意が集中しやすくなるサーキットが出来上がりつつある段階で、これを否定するデータや情報をはじく(頑迷さの)準備が整ってきます。

「識」がさらにイメージとして固まってきて、脳にもそれ以外の器官組織にも影響が出始める段階を「名色(みょうしき)」といいます。
名は心、色は体のことを指しています。
自律神経系がデータベースを元に内臓器官へ予測信号を出し、そのフィードバックを受け取った大脳辺縁系が「感情」を起ち上げる準備段階と言えます。

次に五感覚、つまり外部環境を察知するセンサーからデータを取り入れ、それが自分にとってどんなものであるかを理解し始める段階に来ます。
これを「六入」と言います。
このあたりにくると外側の状況に対する危険察知ができはじめ、いよいよ無明が強くなってきます。

「六入」において外部環境を理解し始め、それが生存にどのような利益不利益をもたらすのかをぼんやり理解し始めます。
そしてそれを実際に利用する段階を「触」といいます。
名色という内部感覚(内受容感覚=内臓感覚)と外部感覚(外受容感覚=所謂五感覚)、そしてそれらを利用するための自己受容感覚(内臓以外の身体感覚)が1つとなって生存戦略の具体的な実践が始まります。

さてこれら様々な感覚と生存戦略によって外部に働きかけるようになると、脳はかなり忙しくなります。
いちいち悠長に考えている暇がないことの方が圧倒的に多いでしょう。
この時過去のデータと様々な感覚から状況の評価を脳は行うわけですが、これを元に即断するための強い脳内反応が必要になります。
快不快をベースにした「好き」「嫌い」などの感情で、これを「受」と言います。
主に大脳辺縁系のうち、島皮質という部位がこれを最終決定すると考えられています。

この感情というものは論理という客観から遠く、必ずしも最適解とは言いがたい選択しがちですが同時に脳に対する親和性は抜群です。
何せ自分を構成するデータベースによって導き出されるものなので、言ってみればそのときの自分そのものだと言えるからです。
当然これらを導出する脳内反応、特に神経修飾物質による情報の鮮明化は強く、私たちを虜にしやすい反応が起ち上がります。
これは一般に言うところの執着であり、釈迦の言では「愛」となります。
現代社会では推奨される「愛」ですが、初期仏教においては執着そのものであり、厳しく戒められていました。

愛は今ある状況に対する極度の「なれ」であり、これを維持している間は他の脳内サーキットや新たな外部データの取り込みが鈍くなります。
つまり自由エネルギーの発生が(短期的には)抑えられ、安定した脳内状態が実現しやすくなります。
その結果心身に極端な不利益不快感がなければとどまろうとします。
これを「取」といいます。
つかんだものは(脳内環境の不利益な変化をもたらさない限りは)手放そうとしない性質、状態のことを指しています。

執着が思考にも行動にも影響し始め、それ自体に注意が向けられる頻度や程度が上がっていきます。
この脳内反応が続くことによって「今ここにある自分」というイメージが大きな割合を占めるようになります。
これは下行性制御反応を伴い、脳内でのシミュレーションはかなり具体的な様相を帯びてきます。
しかしながら単なる思考でとまっており、運動予測や知覚予測を行う信号の精度は低く、予測誤差修正信号もあやふやな状態です。
だからこそ内部の思考に対するチェックシステムは働かず、注意が集中しやすいサーキットが確固たるもののように感じられる段階になります。
これを「有」といい、他ならぬ自分という、ある種の妄想が出来上がるステップになります。

そしてこの妄想は“他ならぬ自分”の生存戦略に沿った生き残り合戦へと仕向けます。
これを「生」といい、そのための具体的な行動を起こさせる段階です。

ここまでは一瞬にして脳内生体内で起きる現象です。
これが延々と繰り返されることによって脳内では使われるサーキットがその頻度に応じて強化されていきます。
この反応全体が認識を生み出します。
さらには自由エネルギーの生成を抑えるため、このメインサーキットは予測誤差信号を出すことはあってもめったなことではそれを自身は受け付けません。
予測誤差信号の精度が高く、頻繁にサーキットに修正を加えるとその都度判断の基準が変わり、生存戦略に影響が出てくるからです。
このサーキット全体を「心」と言い、特定の瞬間の状態、つまり心の変化の過程に注目して起きるのが「意識状態」です。
睡眠や麻酔で意識状態が途切れていても脳自体が完全に休むことは、脳死状態でもない限りありません。
意識というなにかえたいの知れないものが脳を介して私たちを動かしているわけではないのです。

閑話休題。

最後に「老死」。
文字通りの老化、死であり、生命の終焉となります。
なんだかんだ言ってもこの最後を私たち人間は(極度に)恐れ、これから離れようともがく傾向が強いのです。
同時に私たちの生存戦略はこれから遠ざかろうという、理由がわからないけれど生物への共通した圧力によって生じると考えられます。

さて、こうしてみると無明から生まではわたしたちの脳が当たり前に備えている性質によるものであり、それを精緻に観察して分析解析した。
その背景というか原動力には最後の「老死」を極度に恐れる高等生物特有の事情というものがある。
釈迦の生きていた時代、つまり2500年前という古代は当然現代のような医学的知識も科学的な分析方法もなかったので、心の動きや成り立ちとして十二縁起を考え出した事実にはただただ驚くばかりです。
脳の生理的な原則とも私の知る限りですが一致しており、妙な倫理方向のお説教などが入らないところも釈迦らしく好感が持てます。

さて強烈に頭の良かった釈迦はこれらを「基本私たちの心(頭の中)はこうなっている」ということを理解し、しかもそれはほぼ自動的に成立するものであると言うことも当然わかっていました。
選択の余地はあるものの思考自体は自動的に生成され、それを止めることは通常では無理なことも。

少し話はずれますが、私たちの脳内では「分散並列処理」が行われています。
選択の余地はあるものの、基本やはり使いやすいアイデアが採用される傾向があります。
脳内では現状に対しての解決法、回答は同時にいくつかのアイデアが提出されていますが、その中ので最も自分の前提(思いこみ)と矛盾の少ないものを選択します。
これは能動的推論と言って、現状に対して最も生存確率の高い最適解よりも基本的なデータセット(自我)に近い、つまり予測誤差の少ない選択をしがちであるとする生理的な特性によるものです。
注意が集まる脳内サーキットのシナプス(神経接合)はその信号の精度制御が修飾物質により高くなりやすく、その結果として神経接合が強化されていきます。
これは「使い勝手の良い」サーキットの形成を意味し、ますます使用頻度が上がっていきます。
私たちの”他ならぬ自分感”はこうして日々増強されていきますが、同時に正確な認識からどんどん遠ざける原因のひとつともなっています。
そして無意識レベルのシミュレーションを経て、さらに認識を偏らせる方向へ突進し循環(十二縁起)を強めていきます。
この現実との乖離が引き起こす、必ずしも肉体的な苦痛を伴うとは限らない内部反応は全システムへのストレスとなり徐々に私たちを落ち着きや静謐さから引き離そうとします。
釈迦が十二縁起から脱却し取り戻そうとしていたのはこの「心の静謐さ」で、当然ながらそう簡単には達成できないものでした。

元が王子様で、しかし贅沢な暮らしをさせてもらいながら「全然面白くない」とひっそり思っていた釈迦は十二縁起が作り出す生存戦略の行使、そしてその課程にある脳内快楽達成反応にはあまり興味がありませんでした。
当時支配的だったバラモン教の影響もあったのでしょうが、当時のインド周囲で支配的だった考えの「輪廻転生」に対し「なんで永遠に罰ゲームなんかせにゃならんの」とかをずっと考えていました。
他者より生物的にも社会的にも優位な立場に立って生存確率を上げたいという私たちの基本欲求。
富も名声もそのためのツールであると気がついていた釈迦は、すでにあってしかし関心の埒外にあった富や愛執などをあっさり(喜んで?)捨てることが出来ました。
だって元々興味がないところに持ってきて、あっても自分の目的達成(解脱からの涅槃)には全然役に立たないのですから。
普通は出来ませんよ、普通は。
色々普通ではなかった釈迦だから出来たのです。
そしてのちのサンガ(修行者の集まり)に集う人たちもやっぱり多数派ではない感覚の人が多かった。
だって放っておけば強くなる一方の執着を色々捨てることが出来多のですから。

釈迦という人も初期の仏教教団(?)に集まった人たちもはっきり言えば変わり者ばかりで、現世で快楽を得ながら自分の思うとおりに世の中を渡っていきたいと願う“普通で大多数の人”にはその修行メソッドは意味不明でしかありません。
つまりは釈迦や初期仏教って変わり者のための変わった哲学と実践法なのです。
しかも解脱、涅槃への道を目指そうと思ったら今までのモノ、コトを全部捨てて厳格に訓練をする必要があり、修行参入へのハードルの高さは尋常ではないと言ってよいでしょう。
だからのちに「みんなで覚ろうぜ!」「念仏唱えておけばOK!」などと主張し、思いっきりとっつきやすい大乗仏教が勃興し民衆の心をつかんでいったのです。

なんか改めて書いてみると身も蓋もありませんが、釈迦はそもそも世の中を良くしようとか他人を助けようなどとして色々していたわけではないのです。
経典に書かれている神話や手塚治虫の物語とはかなり違って、自分の心の中にしか興味のない、一般的に見ればずいぶん変なひと、という評価が妥当だろうと思います。
但し、少なくともわたしには釈迦が考えた心という現象の分析解析は非常に完成度の高いものに思えます。
あの当時の状況を想像するに、論理は全て宗教発でありそこへ吸収されていたはずで、そこに絡め取られなかった釈迦の主張の論理性には驚異的ですらあります。
汎用性とはほど遠い内容ながら同時に科学的と言っても差し支えないような客観性と再現性を備え、かつその気になれば実用性の高い解決方法も提示可能。
やはり釈迦は希代の哲学者にして極めて有能なカウンセラーだったのだろうと思います。

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