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仏教概論25

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仏教概論25

「仏教って宗教ですよね?幸せになるためのものですよね。でも先生の書いた仏教概論を読んでいると全然そんなふうに思えません。なぜですか?」
先日こんなことを聞かれました。
彼はまだ大学生なのですが、学生らしい直截的な疑問をぶつけられ、これはきちんと答えなくてはと思い、後日改めて時間をとり説明しました。

まず宗教か否かという点について。
本来は目覚めた人(仏陀)の教えという意味では「仏教」と呼称するのは正しいと思います。
ただし一般的に宗教はまず「信じるモノ、コト」があり成立するが、仏教においては本質的には「信じる」は必要ではなく、中心教義という「それを疑ったならば成立しない」核は存在しないと考えるとつじつまが合うはずです。

次に「幸せのためのもの」という点について。
幸せの定義についてはいろいろあるものの、脳内部の反応でそれを定義するとすれば「現状を正当化=記憶との整合性が保たれている反応状態」となるでしょう。
それが肉体的に快楽をもたらしても、逆に苦痛をもたらしても内部での整合性がある=納得しているのであれば、おそらく「それこそが幸せ」であると言えるかと考えます。
ただやはり一般的には報酬系の興奮とリンクした「気持ちのよい状態」のほうがより強く幸福感を感じるとは思いますが。

私たちは常に「自分脳内物語」を生きています。
事象を取り入れる際に様々な記憶と関連付け、あろうことかそれが自分にとっての都合の悪さがないように改変し、脳内での整合性を保持しようとありとあらゆる方法を使って、既に作り上げた「物語」を維持しようとします。
何度も書いて恐縮ですが、仏教において「苦」と呼ばれる問題はすべてこれら「事実の改変の蓄積」とそれがもたらす「脳内における信号量の増加(精神活動の煩雑さ)」、そして結果生じる「認知の歪み」に由来するものと考えられます。
ネガティブであろうとポジティブであろうと、あるいは歓喜に満ちあふれていても苦悩のどん底にいるような状態でも、基本的には「自分脳内物語」に振り回されている点では同じであるとみます。

もうひとつ大学生君が勘違いしているのは、仏陀釈尊は基本的には「話せばわかる人間だけを(自己)救済の対象にして、全員をすくい上げようとは全然していなかった」という点です。
何しろ「自分の苦悩だけをなんとかしたくてあれこれ捨てて覚りにたどり着いた」彼は、最初は「よしこのまま死ぬまでいい気持ちのままでいよう」と考え、他人に対する憐れみなんてこれっぽっちも持っていなかったと考えられているのです。
ただ覚ることによって意識現象の起ち上がりが最小限になったこと、そして「自分という枠」の事実上の消失によって、「利他行為」が当たり前になっていたこと。 
結果生じる「慈悲」という心理状態は、脳内物語から脱出し、その瞬間瞬間のみを生き続ける釈迦だからこそ持ち得るものであり、私たちがいくら脳内物語を工夫してみたところでなし得るものでは(原理的に)ありません。

F君へ。
私の言う仏教は原則「原始仏教」のことで、それは君が考える宗教とは違うものと考えた方がよい。
あくまで自己修練を通して脳内物語からの脱却を図るためのもので、しかも全員がそれを成し遂げられるという想定はしていないようだ。
ついでに言うと君の言う「幸せ」がどんなものかはわからないけれど、脳内物語を生きる我々の「良い悪い/必要不必要」は瞬間で入れ替わるものなんだ。
だからその基準に沿った心地よさも当然すぐに消え失せる運命にあるから、あんまり当てにしすぎない方がいいかもしれないね。
釈迦の言う幸せは脳外現象と脳内現象の遅滞のない一致を指すと考えられる。
つまり事象を正確に受け止め、意味づけをしないシステムの獲得した結果生じる心理状態が彼の言う「覚り」であり、幸せであるというわけだ。
多分それは喜びも悲しみも存在しない、極めて静謐な心理状態だと思われる。
もちろん私もそんな心理状態は一度か二度経験があったけど、すぐに戻ってしまった。
現状考えうる理想の一つではあるけれど、答えがそれだけというわけでもない。
私はそう考えるよ。
君もよく考えてみて下さい。

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