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仏教概論15

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仏教概論15

もはや誰も読んではいないだろうと好き勝手な解釈を垂れ流している仏教概論シリーズですが、意外と反響があって「マジか・・」とびっくり。
調子に乗って「15」です。

仏教概論において「梵天勧請」という言葉が出てきます。
梵天(バラモン教における最高神)に「シッダールタさんよ、あんたのその素晴らしい考えを世に広めておくれ」と言われて釈迦は布教の旅に出た、と言うお話です。

何度目かはわからなくなりましたが、釈迦その人は「もーこんな苦しい人生は続けてイランネ!」という切迫した事情から、いわば“自分救済”のために修行し、解脱に到達したわけです。
「あーやっといろいろ解決したよ、ヤレヤレ。このいい気分のままのこりの人生を過ごそうっと」
覚った後、しばらくはそんなことを考えていたそうです。

で、後付けで神様に頼まれて凡夫救済に向かうとされています。

神様のお願いの下りはまああれとして、(面倒が増えるばかりの)布教に赴いたのは史実のようですが、自分を混沌からすくい取りたい思いだけで極めた思考方法論を、何故彼が広めようとしたのかをちょっと不思議に思っていました。

私は生物というのは原則“自分のためだけにしか動かない”と考えています。
情けは人のためならずではありませんが、そこに何らかのリターンを期待して行動するというのが、最も説得力のある理屈であると現時点では結論づけています。
自分がそうしたい、あるいはそうしないのがいやだからと言ったロジックを根底に持つこの方向性は、最も強烈な「死にたくない」という欲求ときわめて親和性が高いからです。

仏教概論3あたりで書いたように、覚り/解脱を勝手に解釈するなら「脳内超平衡状態」とも言えそうな反応を、外部の刺激無しに維持していると思われます。
報酬系をはじめとした「快楽回路」のレセプター数やその反応状態を、生理的なものから逸脱させることなくしかし目一杯「ステイタス:アクティブ」にさせておく。
それは理性によって阻害要因を一つ一つ排除した結果生まれているので、一端落ちても手順を踏んでまた復活できるものでもある。
コップの水が表面張力で盛り上がっているかのような超敏感状態で、刺激に対する正確なリアクションをみせながら、その一方では揺動がきわめて収束しやすく、脳内だけを評価すれば大変好ましい状況にあると言えるのが覚りの大脳生理的な解説と言えます。

それを極端なまでに体感、体現していた彼がどうしてまたわざわざストレスフルな人生が予想される布教をはじめたのか。

多分ですが「あふれてしまった」からかな、と推測しています。

なにがじゃ?と問われれば「気持ちが」と答えるしかありません。
他人に施す、と言ういわば「上から目線」行動は、自分が満たされたと感じて初めて行い得るものです。
そんな満たされた釈迦は改めて諸行無常諸法無我の原理によってこれが永遠に続きようもない楽土であると思ったのかも知れませんし、憐れな衆生を見て見ぬふりをするのに耐えられなかったのかも知れません。
あるいは別の気持ちが彼を苦海のまっただ中に戻らせたのかも知れませんが、いずれにしても「行動せずにはいられない心持ち」が彼の中に生まれてしまったと解釈するしかなさそうです。

超解読!初めてのフッサール 現象学の理念を読みました。
現象学については私の解説では怪しいので成書をお読みいただくとして、その主要な主張のひとつが「真に疑えないのは“今この瞬間を感じている自分”だけだ」であることは拙いながらも理解できました。

今目の前にある物体、現象が“誰の目から見ても同じもの=客観性をもっている”ことを厳密に証明することは出来ません。
「リンゴはリンゴだし、ミカンはミカンだろうが」と思われるかも知れませんが、極論として”脳の中身を取り替えてみて、しかも以前の中身が感じていた記憶を保持していた場合、全く同じ受け取り方が出来るか”を証明することは原理的に困難なのです。

もっとやっかいなことに「今自分が感じている現実が、実は脳味噌が厳密に管理された状態で見ている夢」ではないと証明することは出来ません。
参考:世界五分前仮説

そうなるとこれをお読みになっている皆さんと、私の間に正確な共有性が存在しているかどうかを見定めることが事実上不可能であることがわかります。

ただし「今そのようなことを思考としてまとめている、あるいはまとめようと感じている事実」だけは否定することは出来ません。
たとえ今この瞬間が夢の中であっても、です。

これを突き詰めてみると「脳の中で起きたことがすべてであり、それを否定するようには出来ていないという性質がきわめて顕著であるのが私たち人間である」といういつも通りの結論に行き着きます。
ちなみに人間以外の動物も脳の支配あるいは干渉はありますが、現在地球上で最も甚だしいのが大脳で勝負!と言う我々人間だったりします。

さてでは「今まさに何かを感じている私」とはなんなのでしょう。
これが西洋哲学で言うところの「主体」であるわけですが、仏教的に言うと「自我」という訳を当てるべきかと考えます。

自我が脳内に出来た、自分を喜ばせあるいは退屈させない経路を保護するための反応がみせる幻影であり、しかしすべての判断はそこを通過して下される。
つまり私たちは脳という臓器が喜ぶようあるいは退屈しないよう思考/行動させられる生き物であり、幻影によってフィルタリングされた形でしか脳の外のことを知り判断することが出来ない。
しかもその判断というは幻影を通過させるが故に脚色されていて、過去の成功事例をなぞって最短で脳内物質の分泌を促そうとし、結果として現実との齟齬乖離を拡大させがちであると言うのもこのシリーズにおける主張のひとつでした。

そしてそのことを最も理解、体感していたのが釈迦という自意識が極限まで肥大し、かつその解決策へ目の向いた希代の哲学者だったわけです。

釈迦はあくまで人間であり続けた。
それはセンチメンタルな心情でそう推測するのではなく、人間(=脳の奴隷、当時は心の奴隷)であることの悲哀への共感がそう思わせるのです。
その前提で行き着いたひとつの答えが覚りであり解脱だった。
しかし自分救いの先にあったのは、人間の中にある普遍的な心情、つまり「病老死」への不安と恐れに対する一つの解答と、それを捨てることがかなわない同族への憐憫であったことは想像に難くありません。

魔法のような考えや方法論による「救い」もよいと思いますが、自分がなぜ悩まねばならないのかを知ることもまた安心(あんじん)をえる重要な方向性なのです。

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