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プラセボに関して思うこと 2

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プラセボに関して思うこと 2 2011/08/02

プラセボに関して思うことをもう少し具体的に考えて見ます。

まずその前に自然治癒力から。
自然治癒力なるものがあり、それが常に私たちに働きかけているとしたら、そうそう簡単に不都合な状態になるわけがない。
私は常々そう考えておりました。
だからそういう便利なものは、ある種の幻想であるとも。

しかし一方で確かに放っておけば崩れる一方である私たちを、かろうじて生かしておいてくれているものの正体は何か。
それは私たちが呼ぶところの「自然治癒力」の一面ではないか。
そうとも思っていました。

この“矛盾”をどう考えるべきか。
色々考えて見たのですが、妥当と思える案は以下のようなものでした。

・自然治癒力と呼ばれる“何らかの”力はどこにでもあるが、しかし一方で結構いい加減な作用を及ぼす。
いい加減、というのはその作用範囲はわりとゆるめ、と言う意味ですが。

・ありとあらゆるアプローチに応答して(そこに若干の差はあれど)動き出す力であるが、なぜか最初の方よりもあとの方で“効き”が良くないケースが圧倒的に多い。

・作用機序が不明であるという点において、プラセボ反応と同じ、あるいはその源と見なされる。

もちろん異論は百出するのでしょうが、特に三つ目は「有効成分なしで起きる反応をプラセボ」というなら、正しいということになります。
医業従事者、あるいは医業類似行為従事者たちにとって、このプラセボという言葉は何となく“だまし”と同じような響きを持つといいます。
少し考えればそんなことはないのですが、とにもかくにもプラセボ反応によって得られた結果は、治癒データとしてカウントされないようになっています。

その理由としては「意識や精神活動という曖昧模糊とした、定量不可で実態を観察できないものは、作用ファクターとして考えるに値しない」ということなのだろうと考えます。
あとは再現性のないアプローチに対して、其れを危ぶみ警戒するという“正しい”姿勢もあるのでしょう。

ここで一つ気をつけておきたいのが、二重盲検査などにおいて定量化したいのは「アプローチそのもの」であると言うことです。
その中には反応式の明確化など、体内における成分アプローチも含みます。
つまり次回同じ成分を投与したときも同じ反応、同じ効果、そして同じ結果を望めるものを探しているのです。

対して私たちパラメディカル、特に東洋医学と呼ばれるアプローチを主体とする人たちは、同じ成分(あるいは施術)で同じ反応、同じ効果、同じ結果など望みようもない、と考えます。
その人のあるべき状態に近づけるために行うのが目的なのです。
つまりあるべき姿は人それぞれ、そして毎回違うものなのです。
ましてや症状ごとに違うアプローチとは限らず、違う症状でも状態が同じなら同じ処置を施すこともあります。

そこには「施術する側される側の期待」というものを存分に活用して、復元力を活性化させるようにもします。
正確には心身不可分の立場を取りますので、分けて治良するということがありません。

ただし定量化不可の部分を扱う関係上、“科学”として考えたりとらえようとするとかなり無理が生じやすくなります。
パラメディカルにおいて最も重要な反応を引き出そうとするなら、その曖昧さをそのまま自分のものにする必要がある、と言うことになります。
これはかなり大切であると私は考えています。

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