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仏教概論29

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仏教概論29

今勉強をはじめたばかりの大乗仏教なる考え方は実に多岐にわたっていました。
よく言えば極めて豊かな多様性を持ち、悪く言えば収拾がつかないくらいにとっちらかっています。

ゴーダマ・ブッダの主張である「変わらないものなんて無いし、あなたが自分だと思っている“自我”も当然そうである」という部分は、繰り返し繰り返しブッダによって語られていました。
当時インドを支配していたバラモン教などで語られていた「どこかにある常在的な自我」みたいなものは放っておけば増長するばかりの、単なる心(=脳)の性質であると切って捨てました。
同時に「瞬間瞬間に生じる認知のまとまりとしての自分」は明確にあるし、この認知に対して記憶のリンケージや、フィードバックによって起きる記憶の変成、そこからくる認識の歪みが無明の元になると説きました。
また結果として発生した意識現象は、脳の特定のコンポーネントやネットワークを活性化させ、状況判断に必要な情報処理がおろそかになる弊害をもたらします。
個々の生理的な特性にもよりますが、一端易興奮性をもったコンポーネントやネットワークは、他のそれよりも興奮頻度が上がるよう脳に仕向けられ、常にそのことで(文字通り)頭がいっぱいになる、所謂「執着」という反応を私たちに作り出します。
彼はそういった「(当時は脳とは言わず)心の性質」について何度も話して聞かせ、その理想的な在り方やそこに至る方法を具体的に提示しました。

ただし「心オタク」だったゴーダマ・ブッダは涅槃寂静にしか興味が無かったようで、これに至る厳密なメソッドは示したもののそれは非常に過酷なものでした。
多くの一般人達には達成はおろか、手をつけるまでのハードルが極めて高いものでもありました。

ブッダの死後数百年たって起きた「みんなで覚ろうよ運動」は、こうしたハードルの高さに対して「そんな高みを目指さなくてもなんとか出来るのでは?」という、ある意味素朴な疑問も手伝って広まってゆきました。
そもそも自分ってものが幻みたいなもんだというなら、そして常なるものが存在しないならば、もしかして今認識しているすべてって幻なんじゃねーの?
そんなことを言い出す人たちが増えていったのです。
有名な般若心経などはこれについて書いているのですが、少し考えると「?」となって当然の発想ではあります。
この発想はのちに「そのままで仏だから」という(中間をすべて省略した)フレーズによって一般に拡がってゆきました。

仏教に関しては無知で素人な私なので好き勝手に書きますが「そりゃいくら何でもおかしいだろうよ」と思ってしまいます。
たとえ今私たちが感じている“現実”がコンピュータの作り出すVR(@マトリックス)であり、何かの装置に横たわってみている夢だとしても、今この瞬間認知のまとまりによって生じた「他ならぬ私」は幻でも何でも無く、それによってしょうじる「苦」もまた紛れもない現実です。
これ自体は疑おうにも疑えない現象であり、これも「それは幻だから気にすんな」と言われて「ああそうですか」と思えたならば一度自分の精神状態を疑うべきだろうと考えます。

素人な私ではわからない流派の見解や奥義(笑)みたいなものもあるのやも知れません。
ですが、「色即是空」に代表される「アンタを含めて皆幻で実体なんかはナッシング」といった発想には納得できないでおります。

苦の原因たる心の動きは現実だし、それによって生じる認識力の流動性低下、さらに結果としてその固定されたイメージを自分だと思いたがる心(脳)の傾向が大問題なんだからして、私の言うとおりにやって解消してしまいなさいというゴーダマ・ブッダ。
苦も執着もそれどころかあんた自身を含めた「現実」もある種の幻みたいなもんだから気にしなけりゃOK!という大乗仏教(もちろんこういった考えをいさめる先人も沢山いたようですが)。
手をつけるにはハードルが高く、達成には人生をかける必要がある初期仏教。
(理解していれば)日常生活に役立つ方法論が満載の大乗仏教。

そうそう執着を捨てられない私は現実的には後者を選択するしかありませんが、同時に人というシステムへの興味もあり前者の考え方を勉強し続けたいとも考えています。

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