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仏教概論20

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仏教概論20

先日 仏教思想のゼロポイントと言う本を読みました。
その中で私が以前から少し疑問に思っていたことについての解釈が書かれていました。
それは「釈迦は仏陀となった後、何故また面倒な衆生に関わろうとしたのか」という点についてです。

いったん目覚めてしまった彼、つまり脳という臓器が作り出す幻想に惑わされず、今ここを生きることだけを実践できる境地に到達した解脱者たる仏陀が、何を好き好んで脳に翻弄されている我々の中へ戻ってきたのでしょう。
この本の中で著者は

”では、意味の判断も無意味の判断も失効したところから、衆生への利他の働きかけを行おうとする人々の心象はいかなるものであるのか。あえて言語によって簡潔に表現するならば、それは「遊び」というのが適切であると思う。” P167より抜粋

と推測しています。

さてこの「遊び」の意味を少し考えてみました。
基本的に非生産的で余ったエネルギーを消費するために行う。
遊びを定義すればそんな感じになるでしょうか。

いろいろわかっちゃったしもう苦しさもないけれど、残りの人生衆生に教えて回ってみるか。
身もふたもない言い方ですが、多分そんな気持ちで初転法輪をおこなったのだろうと、私も個人的には考えます。
釈迦は本来、自分のことだけをなんとかしたくて修行をした人ですから、一応つじつまは合っているなと思います。
となると、慈悲という「憐れみ」から生じる気持ちも、自分のことがなんとかなる前に生じたわけでは無いでしょうし、また自分のことがなんとかなったから他人のことを考えることが出来た、と言う話も説得力を持ってきます。

もうひとつの切り口として、「自分」の定義について考えてみます。
自分とはいろいろなコトやモノから出来ている。
端的に言えばそうなります。
ですが、釈迦は「自分なんてモノはあると思い込んでいるだけで、実は心(今で言うならば脳)が自らを維持するために必要な情報によってできあがっている幻想みたいなモノ」とばっさり切り捨てています。
自分なんて幻想を通して物事を見て、都合のよい意味づけなどと言う“判断”をするから、現実を正しく認識できないんだ。おまえの苦しみの原点はそこだから。
えらく省略して書いていますが、彼の主張の根幹はそのようなことです。

しかしながら生きている限り、どこまで行っても肉体のくびきがなくなるわけではありませんし、認識を行っている主体=自分が消滅するわけでもありません。
ただ目の前の現象、感覚を評価しなくなるが故に振り回されなくなると言うだけで、厳然として「瞬間瞬間の自分」は死ぬまで継続します。

さてここで少し前に戻り「自分はいろんな要素で出来ている」を考えます。
少し前にもこのサイトで取り上げた統一場心理学の考え方を再び参考にします。
この本によれば私たちの内面を構成する記憶のほとんどは自分以外の人間に関するもので、それぞれが他の記憶や感覚と結びついてネットワークを作り、そしてそれは可能な限り大きく安定した状態になろうと活動している、となっています。

さて釈迦はこのような「内面の記憶同士が引き起こす迷い」を超越することで「目覚めた状態」へ遷移したわけですが、それは私たちが記憶による痛痒を糊塗しようと次の刺激を求めることとは根本的に異なる状態にあります。
ですが先に書いたように、だからといって瞬間瞬間の自分までが消失しているわけではなく、相も変わらず感覚はありますし、当然不快感も生じるでしょう。
ただその感覚そのものやそれにまつわる記憶(=意味づけ)により生じる先回りした苦痛(不安)に振り回されないので、悩む必要がなかったと思われます。
そんな生きるために最低限必要な”自分”しか生じない釈迦でしたが、生じたそれは無限の許容量となっていたとも推測されます。
もちろん許容していたのは自分以外の他人に対してであり、それらは意味づけを成されないでただその状態だけが記憶されるため、そして既に守るべき自我、言い換えるならば自分が安定する範囲、状態を決めずに済んでいるため、いくらでも他人を記憶としてとどめておくことに困りはしなかった。
論理的に考えるならばそのような答えに行き着きます。
脳の構造からして、それらはすべて釈迦にとっての「自分」となっていたはずですが、そこのところの構造は「脳内物語」を生きている私たちにはなかなかイメージしづらいものであるはずです。

ともあれ、そのように「自分はあるがそれは自らを振り回すモノではあり得ず、そしていくらたくさんの他人を住まわせてもあふれたり壊れたりすることはない」内面を持つ釈迦は、そもそもが自分と自分以外の区別がかなり曖昧な心理状態を維持していたと思われます。
つまりいつも自分のためにだけにしていることも、自然と自分以外のため、つまり利他行動になってしまっていたと考えるのは不自然とは思えません。

私のような狭小な人間でも、(多分)ある程度自己犠牲を厭わず行動できる自分以外の人間がいます。
ここに共通点はないのか。
実はあります。
それは「あくまで自分のために行動するが、その“自分”は拡張可能なシステムであり、背負うモノが増えてゆけば基本的にその範囲は拡がる。また場合によっては自己と他者の区別はなくなり、結果として利他行動は自然と達成される」と言うことです。

原則自己中心的であるのが私たち生き物ですが、その自分というのは必ずしも自分以外が存在しないという意味では無い。
私は釈迦が教化の旅に出た理由をそのように推測しています。

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