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記憶の共有

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記憶の共有

幾度かこのサイトでも書きましたが、生きているものの思考、そしてその過去形である記憶はラジオやCDのように他への影響力を持ちうるものであると私は考えています。
もちろんそれに影響を受けいない場合の方が多いのですが、意識の奥にある琴線に触れると、考え方そのものを根こそぎ変化させられるくらいに深く食い込んでくることもあります。

本質的に記憶の影響力が肉体を持つ私達の生理的安定性を上回ることは考えにくいですが、いくつかの例外ではなかなか強固な反応を見せることになります。

私は基本的に特定の考え方に帰依(そこに考え方の基礎を置くこと)しておらず、魂やそのリサイクルについては確信を持って話すことができません。
ですから死後の自分や自分以外のデータがだれかにそのままもしくは一部が転写される、いわゆる前世という発想については検査をふくめて確認をしてみたことはありません。
もしかしたらあるのかもしれないけれど、私はそのような見方をしない、というほうが正確ですが。

しかしながら誰かの残した記憶に影響を受けていると思われるケースは数多く見ており、しかも身近な人間とその記憶のベースになっているストーリーが重なる事によりおきる問題も少なからずあると断言ができます。

これはいったいどのように解釈するべきなのでしょうか。
やはり“前世”はあって、だれかと昔の人生を生きていたのでしょうか。

私個人としてここで「記憶の共有」という概念を提唱します。

記憶が何らかの(それ自体が可変であれ不変であれ)影響力を持つとして、しかもそれがユビキタス(あまねく存在する)なものであるとするなら、私とあなたが同じものに影響されている可能性というのは否定できません。
また別の誰かとその友人が、私達と全く時期に同じ記憶を拾って影響を受けていないとも限りません。

(自称)お釈迦様の生まれ変わりが現在の日本では1万人ほどおられるらしいですが、たった一つの魂がそれほどまでに分散しているというのも牽強付会に過ぎるような気がします。

(正しい表現とは言いがたいですが)ネット情報のように環境さえ整っていれば誰にでもアクセスできるものである。
思考や記憶というのはそのようなものではないかと私は考えています。
また、きちんと説明はつきませんが思考や記憶というのは時間も距離も関係がなく、どこにいてもどのタイミングでも影響を受けるときは受ける。
私はそうも考えています。

似たような環境で似たようなことを考えるとき、つまり身近な人同士が同じような記憶に影響を受ける。
しかしそれはいわゆる魂のリサイクルから生じた結果ではなく、単にどこかにあるものを拾い合った。
それでストーリーが重なる。
だから自分がある人(主に有名人)の生まれ変わりであるという人が結構な数存在している。
これならば同じ記憶が同時期に分散存在していても、論理的破綻は(一応)ないと言えるのではないでしょうか。

でここからが本稿の本題です。
記憶の影響された結果、単独であれば生理状態の改善だけで解決するケースも、他の人との間に共有がおきるとき、それはなかなか侮れない制限を体に課すことがあります。
わからないものであれば生理状態の方が優先されて、これを牽引することで変化が起きることが多いのですが、意識に上ってそれが根付くとイメージによる負荷がプラスされることになります。
ましてや他人と同じ(疑似)体験を共有しているという気持ちがこれに拍車をかけます。
こうなるとちょっとやそっとではブロックを解除することができなくなります。

こんな時私は(おかしな話ですが)「人は(文字通り)一人で生きているわけじゃないんだな」と妙な感慨を覚えます。

ホリスティック医学、という考え方があります。。
病気単体をみていても原因はわからないよ、というような意味で使われるケースが多いようです。

しかし私達(私?)も、視野を広くとっているつもりで実は個人やそこにまつわる事象しか相手にしていないということがほとんどです。
つまり人のことをあれこれ言っている場合ではなく、枠組みそのものを常に見直しておかないと、すぐに思考の硬直を起こしてしまうのです。

治るとは何か、病気になるとは何か。
やはりここから考えてみる必要があるようです。

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