無駄について
無駄
何事においても「無駄」を排除するというのは自然の摂理であるかのように思われています。
本当にそうなのでしょうか。
確かに代謝を行わない鉱物などはできるだけ安定的な部分を増やすためバルク(中身)を多めに、不安定なサーフェイス(表面)を極力少なくするために、その形が球に近づいていきます。
内部変化がないあるいは少ないものはそれが自然であろうと私も思います。
「自然は変動を好まない」
つまりできるだけ安定した状態を指向するので、これが自然の一つの側面だというのはわかります。
しかし、オープンシステムで常に外部からエネルギーを取り入れ、そしてそれを代謝しながら利用する私達のような生物は、当然最小限のエネルギー状態だけを保っていられるわけではありません。
もちろん生まれた瞬間から無秩序状態に向かいその不安定さを増やし続けるわけですが、一方では外部エネルギーを利用しながらそれに逆らうのが生き物という“奇妙な”系の特徴でもあります。
この「無秩序に向かいつつも秩序を構築し続ける」という、一見非効率に見えるシステムの内部では、それこそ非効率な、言い換えると無駄と思えるプロセスのオンパレードになっています。
酵素反応はタンパク質のダイナミックな代謝の結果ですが、その働きの秘密がタンパク質がとる立体構造にあることは以前書きました。
この立体構造一つとってみてももう少し効率的な、少ない数のアミノ酸で構成させることは可能であろうと思われます。
しかしストレートな、無駄を省ききった構成だと、何かあったとき、つまり遺伝子レベルでたった一つの塩基の欠損があっただけでその構造がダメになってしまいます。
これが重要な制御あるいは構造に関係していると、もうその生き物は生存そのものが不可能になります。
しかし長大な連なりの中でいくつも重複した構造を持ち、代替部分を抱えていると、多少のエラーくらいでは全体が揺らぎません。
タンパクの立体構造は分子の持つ電磁気力などがその“接着剤”ですから、近くに似たような分子構造があれば、多少いびつになっても何とか機能させることが可能だったりします。
機械のように用途が限られ、その構造や機能が完全にわかっているのであれば、無駄を極限まで省いた高効率が尊ばれるでしょう。
しかし私達の体は目的ははっきりしているものの、その過程で起きるイベントやパラメータの変化を限定しすぎると、オープンシステムそのものを保てなくなり、最終的には生命活動の維持も困難になります。
水をたくさん抱えていることも、DNA上にタンパク質をコードしていないイントロンという部分が多いのも、たくさんの臓器が一つの働きを形作っているのも、すべては不確定な要素が左右する自然を生き抜くためなのです。
翻って考えるに、やはり治良においてもターゲットを限定しすぎることというのは、リスクと表裏一体であると言うことなのかもしれない。
極論に過ぎるかもしれませんが、ある異常な状態に対応するためにあれこれ逸脱した結果が「不健康」ならば、その奥に触れることこそが治良であるのか、と思い至りました。
もちろん一つ一つの治良がすぐに望むような結果を出さないからといって即「無駄!」と切り捨てるのは、自分で自説に反することになりますが(笑)。