気分と欲求
気分と欲求
自分に正直に生きる
ありのままに
間違ってばかりいるとは思わないけれど、大抵は「今生じている衝動を押し通す/逆らわない」という意味合いで使われているような気がして、私個人としてはあまり好きなフレーズではありません。
衝動に従うことが悪いわけではもちろんありません。
しかしながら衝動という「表面上の気分による反応」がまるで体の真の要求(欲求)のように扱われ、これを実現することこそがあたかも正しい人生だとするような風潮には「そーか?」と思ってしまいます。
そもそも正しい人生なんかあるのか?という話はおいておきますが、今回はこのごちゃ混ぜに扱われことが多いふたつについて考えてみます。
まず簡単な復習から。
私たちの行動は
・死から遠ざかるという謎の圧力に突き動かされたもの
が優先順位「1」となります。
あまり経験がなく脳内イメージが固まっていない幼児期くらいまでや、もう何も考える余力がなくなっているときなどはこれが前面に出てきて、極めて予想しやすい思考行動となります。
まさに「自分(の欲求)に正直」に行動しているわけです。
しかし多くの人にとってのそれ以外の時間、就学年齢以降から老衰前までくらいの「脳内イメージ」が構築されてそれに右往左往させられる時期はどうなのでしょう。
まず原則として「私たちは脳の意向に逆らうことが難しい」のです。
脳の意向というとちょっと変な表現ですが、思考が脳内イメージに沿って生成される(ここ大事)以上、そしてそれらの脳内反応が報酬系や警報系と言った「ご褒美や恐怖」を演出するシステムと結びついていることが変わらなければ、私たちは脳というたった1kgちょっとの臓器の言いなりのままに生きてゆくことになります。
ただし思考を形作る反応(脳内サーキット)は常時複数走っています。
もっとも強烈な反応上で情報を処理し、行動を起こす割合は高いものの、選択の余地が全くないわけではありませんので念のため。
さて話を戻します。
例えばですがOFFになるとビールを飲みたがるおっさんがいるとします(決して私のことではない!)。
仕事中はそういうことはありませんが、終わると反射的にプルを引っ張っているような、そんな人間を想像してみて下さい。
生理的に考えると「まあたまには緊張をほぐす意味はあるよね」となっても、ほぼ毎日となると「体によいわけねーだろ!」となります。
なのに何故か飲む。
「死から遠ざかれ」という圧力に突き動かされた選択としては「飲まない」になるはずです。
しかしその謎の圧力が駆動する臓器のひとつである脳は、脳内世界というイメージに沿うように情報を再構築し、命令を下せるような反応を作り出します。
問題なのは私たちがこの「気分」に振り回されがちで、あまつさえこれを主体或いはそれが作り出す何かだと思いがちだと言うことでしょうか。
繰り返しますがこれに従うことが悪い、と申し上げているわけではありません。
これが生理的にみて正しいかどうかを良く考えてみる必要が、人生には沢山あると私は思うのです。
今日Facebookにシェアした記事なのですがこんなことが書いてありました。
リスクを確立で判断し、損になる方へは動かない。
これが脳を発達させてきた私たちの行動原理になるはずですが、脳という臓器の状況次第ではその場の気分(衝動)を抑えることが難しくなり、結果として不利な状況に足を踏み入れてしまう。
よくあることだし人の本質の一面であると言えばそれまでですが、大切なのは「そういう傾向が往々にして私たちの行動に影響すること」を知っておくことでしょう。
ビールをつい飲んでしまう自分を「ありのまま、自分に正直に生きているんだ、素晴らしい!」なんて言い訳しないで「今日も衝動に沿ってしまったか・・仕方ない・・グビグビ(プハー」のほうが、少なくともごまかしや自分への嘘がなくて生理的な負荷は少ないように思うのです。
気分に正直に生きる。
再三書きますが悪いことではありません。
ただし言い訳や美化ばかりしていると本当の「欲求」、そしてそれが生み出す気分の変動がつかめなくなり、内面での乖離が起きかねません。
そもそも脳味噌は言い訳をするように出来ている。
このことを忘れずいたいものだなと改めて思う次第です。