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気についてまたまた考えてみる

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気についてまたまた考えてみる

昨年は整体師なのに鍼灸の本ばかり読んでいました。
どれもとても勉強になったのですが、とりわけ経絡と解剖学、そして閃く経絡の二冊はいくら考えてもよくわからない「気」についてその理解を促すようなヒントがありました。

これまでのざっくりした理解では
1,生命を生命たらしめる根源的なエネルギー、或いはそれを有する何か
2,これが不足したり枯渇するとその領域に問題を生じやすくなる
3,どうやら一部の人はこれを操り自分や他人の体調に影響を与えうる
と言うものでした。
しかしこれが私の中のどんな認識ともつながらず「あるのかもしれないけれど怪しげに過ぎる」などと、自分のことは棚に上げて眉唾でみていました。
さて上記の二冊のうち「経絡と解剖学」の方にこんな下りがありました。

「気ー恒常性を支える力 中略 この"生命エネルギー"としての<<気>>には2つの明確な定義がある。一つは「人体を構成し、生命活動を維持するために必要な微細な物質」であること。現代的には、様々な原子、元素、栄養素がこれに当たる。つまり人は<<気>>でできていて<<気>>で動いているのだ。もう一つは「機能」-代謝、循環、呼吸、運動、消化、吸収、解毒、排泄、生殖、免疫、思考と言った生理機能そのもの-もまた<<気>>という言葉で表現する。 P4から抜粋

この文章の妥当性はいったん置いておきますが、他に10冊近く鍼灸の本を読みそこで語られていた「気(或いは”氣”)」のバラバラなイメージがこの文章を読んでわたしの中で統合されたような感じになりました。

気は事実上血や津液(間質液)という実質的に栄養供給を行うものに先行し循環している。
気とは言ってみれば代謝、つまり異化同化作用を含む生存上必要な化学反応そのものであり、この際に生じるエネルギーを循環させて場合によってはアースしているのが経絡であり経穴である。
それは現代的に言えば結合組織(筋膜)上を流れ、代謝プロセスで生じる電気的な特性の流路を形成している。
気が先行し血、津液はその化学的な安定を維持しているエリアを流れ、組織に栄養球供給を行うことが可能になる。
これ(気)が多かったり少なかったりすると虚実という状況をつくり、陰陽バランス(熱循環もしくは熱分布)が崩れ問題を生じやすくなる。
また過剰・欠乏が長期間続くことによってその部位の血津液の流れに影響し、代謝や栄養供給が滞り自律的回復が不可能な「病」に発展する。
一方結合組織上を流れる「気」は経穴と呼ばれるポイント上で、つながる部位(主に内臓)の出力調整を行う安全弁のような役割を経穴に促す。
ここに鍼を刺入したり灸の温熱効果で結合組織の緊張を適正レベルに誘導することは機能低下によって不安定化している結合組織(主に血管)の動きを最適化しうる。

いろいろ読んでみて逆によくわからなくなってしまったことが抜粋部分を読んでまとまったように思えます。
これはここ最近では一番腑に落ちて役に立ったことでした。
このおかげで「気」は茫洋とした、得体の知れない何かではなく、十分に実体を持ち必要不可欠であるものだということが私の中ではイメージできました。
治良をしていて感じるあの"つながった"感や、その後に来る"緊張が緩む"感じは結合組織や神経上を流れる電気的な特性が連続性を復活させ、その後結合組織に包まれた血管機能が復元したときの手応えだった(のかな)。

もっとも納得がいったからといっていきなり自由自在に操れるようなものではなさそうで、やはり一つ一つ手応えや検査結果を確かめつつ治良していることには変わりありません。
ただあまりに茫洋と過ぎていたイメージが少しはっきりしてきたことで、今自分が行っていることとの関連性が見えてきた。
あるいは遠隔治良に代表されるように直接的な接触がなくとも何らかの変化を促すことが可能であると感じられる理由が腑に落ちかけている、ように思えます。
まだ自分にとってはなぞだらけで100%の自信を持ってこれだ!といえるほどの確信も育っていませんが、怪しげで人前で話すのははばかられる存在から少しだけ実感できてその姿形が見えてきたようでうれしく思っています。

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