未病
未病
本来は「未だ病と認めることができない状態=分類/検証可能な形で発症していない状態」となります。
組織変性はもちろん、測定可能な形の問題を抱えておらず、あっても原因を突き止めることができない状況の総称と考えると良いかと思います。
たとえば私たちは程度の差こそあれ、皆好不調の波を経験します。
しかしいわゆる健康な状態であれば、それは短時間のうちに収束し、とくに違和感を感じずに日常生活に戻ってゆけるはずです。
もちろん変性疾患などを抱えていればそれは治まりづらく、そして繰り返しおそってきて、悪化してゆくケースが多いでしょう。
ただし明らかな問題箇所と症状の間に因果関係を見いだすことができないことも多々あり、症状からだけでは問題解決に向けたみたてが難しいのも事実です。
自律神経失調症という病名があります。
病名というよりも症候名ですが、1960年代から知られるようになり、一時は大活躍した名前です。
ここ最近は様々な解析が進み、「気のせい」といわれた問題の背景が徐々に明らかになってきました。
そんな事情も手伝ってカルテに記載されることも少なくなったと聞きました。
要は体の中のアクセルとブレーキにメリハリが無くなり、環境追従能が不安定になった状態を示しているわけですが、じつは生理的には様々な問題への入り口とも言える状況をも示しています。
私たちの体はじつは気づかないことが多いだけで、常時様々な変動に対応、対処しています。
放置しておけば崩れる一方の人体/生命というシステムを、できるだけ存続させようとあらゆる手を打っているのです。
好不調の波はこのようなアクセル/ブレーキの緩急がもたらす、いわばメーター表示の“振れ”です。
つまりは生きている限りは避けることのできない反応が意識されたものということになります。
一例を挙げると温度差による皮膚表面の反応があります。
必要以上に体温が逃げ出しそうになると、毛穴は表面を引き締め、場合によっては血流を制限してあるいは増大させて熱循環をやりくりします。
逆に体温の上昇が許容以上になると判断すると、毛穴を開き皮膚表面の血流を増大させるなどして発汗を促します。
いずれにしても無意識に行われる「自律的な」反射で、その制御の主役が自律神経系と呼ばれるシステムになります。
ではこれらの反応がオンデマンドで行われないとき、私たちの体はどのような状況になるのでしょうか。
体外温度が15度低くかつ20分以上続くとき、サイズの大小にも寄りますがおおむね以下の傾向を示すといわれています。
発汗の効率がそれ以上の気温に比べ格段に制限される。
内分泌系の反応が興奮誘導型にスイッチする。
脳内の伝達物質のやりとりがやはり興奮状態を誘発しやすい状態になる。
しかし制御の最上位である大脳半球に影響する問題が存在し、これらの反応がスムーズに行われず、ワンテンポあるいはそれ以上の遅れが常時あるとき、必要以上に熱をため込むようになるでしょう。
そして今度は慌てて排熱を行うように反応が振れます。
たまにはそれでもいいかもしれませんが、そのとき必ずしも排熱を行わなければならない状況であるとは限らず、体の混乱が続くことが予想されるようになります。
暑くも無いのに汗をかき、体温に近い気温で寒気を覚える。
感染症などが存在しないのにこれがいつも繰り返されるようでは、なめらかな運営などとうていできないことは容易に想像がつきます。
当然これらの「訳のわからない症状」の背景は何かしら存在するのですが、それが特定できないあるいはきわめてしづらいものだとするとき、もしくは復元のいとまが与えられず常態化してしまうと、だんだんと問題はややこしさを増してゆきます。
とくに神経系の脆弱さは特別ですから、大きな振れが増えるほど振り回される度合いも高くなります。
これらを放置しておくことによって生じるさらなる「自律的反応の乱れ」は、単純な処理では回復が難しほど効率を低下させ得るものとなります。
私は「未病」の生理学的な背景をそのようなものであると考えています。
日本人ははじめとしてモンゴロイドの訴える不調感の半分以上はこういった問題が関与していて、それ故に制御系を「超生理的」とも言える方法で養生させようと試みてきたのでしょう。
東洋医学的と称される方法論に私はそのような意味を見いだしています。
同時にシステムそのもののポテンシャルに影響を与える(可能性がある)治良は、こういった「病気未満」の不調感を対処できる有効な方法なのだろうとも考え、日々研究を重ねています。