意識の定義
意識の定義
いくつかのシリーズに渡っていろいろ書いてきましたが、その中で「意識の定義をいかに考えるのか」という質問を、結構な頻度でいただきました。
そんなわけで私が現時点で「これが意識である」と思うところを書いてみます。
まず基本的な脳の性向として
・常に自分(脳)だけが大事で、そのためにあれこれする
・基本的には大食い(糖と酸素を大量消費する)の臓器
・制御を含めやることが常に、そして大量にあり、日常頻繁に行う行動反応は可能な限りパッケージ化(最小限脳を興奮させるだけで行えるように)しておきたい
・その一環として過去のデータを大いに活用したい
・ただし上記のようにやること一杯で全部をおぼえておくのは難しいから、印象的なこと(これは過去データとリンクし易いものから選ばれる)を編集加工しておさめておく
・この中でさらに長期(0.5秒以上)にわたり脳を興奮させたものは、はっきりと頭の中にイメージされる
・そこまでゆかなかったものも一応記憶されるが検証したり思い出したりするのは難しい
・基本これらの働きは「死にたくない」という生物的な欲求がベースになり、最も強い動機になる
・しかし一方ではこれらをサポートする報酬系などの「ご褒美をくれるシステム」がもたらす「快感」が死にたくない欲求を凌駕することもしばしばある
と言ったことが前提になります。
「統一場心理学の考え方」によれば、私たちの“心”は、その基本構造が多数の内在者(出会った人たちのイメージ)でできあがっているとしています。
その数は事実上計測不可能で、出会った人の数だけ内部イメージが蓄積されていることもあります。
これらはさらにいくつかの特性を経て、私たちの複雑な心情を作り上げていると書いてあります。
同著で「意識という現象」は「内在者間を渡り歩く」とし、内在者同士が結びついて大きな塊になればより安定が望め、逆に内在者同士が融合せずにばらつけばそれだけ不安定な心情になりやすいとも言っています。
一方脳の基本性向とつなぎ合わせて考えるとき、脳自身は出来るだけ効率的に内部反応を処理したがっており、そのためには多数の記憶をスムースにつなげて、より少ないエネルギー消費で安全あるいは効率的な成功パターンを探っておきたいことが推測できます。
会社で言えば各人のみならず、各部署あるいは上下間の連携がスムースにいって、それぞれの負担は少なく、しかしより高い利潤を上げうる状態を目指していると言えるでしょう。
事実脳がスムースに動くとき、機能的な側面を探る装置(fMRI)による画像は各神経核の興奮が少なく、その代わり広範囲にわたって少しずつ情報をつなげてやりとりを行っていることを示しています。
これは脳自身が「自分のフォーマットに合わせた形でしか情報を形成できず、ある意味脳内の反応だけで完結させようとする」特性を持つことと深く関わっています。
少し意地悪く言うなら「脳は自分の内部の情報だけで物事を予測する傾向があり、それ故にあちこちの情報を出来るだけつなげて、脳が納得する形で蓋然性を高め、失敗を減らそうと常にしている。迷っているときほどその傾向が強まり脳以外のシグナルを見落としがちになる」といった方向性をもっています。
さてではこのとき「意識」はどうなっているのでしょうか。
生存に有利あるいは脳内ご褒美システムが活発に働くよう脳が指令を出そうとするとき、内部に蓄えられたデータ(内在者もその一つ)をよりつながった状態で利用しようとします。
何しろ「楽をしたい」「そのためには過去のパターンを可能な限り踏襲したい」のが脳ですから。
このとき、各神経核やそれらが作るサーキットがよりまとまって展望を予測しやすいときほど、情報やデータが脳内にとどまって興奮させる度合いが少なくなるはずです。
いちいち立ち止まって他のデータを引っ張り出して参照して検討して・・・と言った動作が多いほど、脳の表面に浮かんでくるイメージは長く滞在、つまり「意識される」度合いが高くなると推測されるからです。
先ほどの会社にたとえるなら、連携がうまくいっていないときほど、手元の資料をみたりコンピュータの内部や書類を引っ張り出して確認して、挙げ句の果てには上司に相談する機会が増え、そのために時間がとられて疲弊してゆくわけです。
こうしてみると“意識(と言う現象)”はどうやら過去のデータ同志が角突き合わせているときほど生じやすいものらしい、と言うことがわかってきます。
私見ですが意識とはデータのつなぎ合わせあるいは選択に時間がかかるほど生じやすく、支配的になると考えられます。
言い換えるなら「意識が先行しているときは迷っているとき」となります。
動作の後追い反応であるにもかかわらず、その刺激する時間が長く、脳内のシナプス(神経素子同志の連絡)強化を頻繁に行う“意識現象”は、あらゆる刺激に対して反応を始めるようになります。
紙についた折り目がどの角度からの力にも反応しその折り目に沿って曲がるようなもので、次第に脳の内部で占める時間(量)が大きくなってゆきます。
こうして脳に焼き付けられた「いつもしている仕事や刺激の経路」はだんだんと強化が加速されるようになります。
一つはとりあえずその方向で効果が上がることを、報酬系の刺激を通して学習していること。
他方、その報酬系のくれるご褒美目当ての脳内反応もあり、その快感(報酬)を守ろうとするためと考えられます。
これらをなぞろうとするたびに報酬(ドーパミン作動性神経による快感の発生)が支払われ、そのたびに本線やその周辺の経路の強化が起こる。
これも別の言い方をするなら「その都度行うべき(本来の意味での)臨機応変な対応が我々の脳の特質である過剰な学習効果によって阻害された結果のもの」となります。
こんな風にして「本当なら最小限ですむはずの意識」は、実生活における様々な抵抗に遭ううちに私たちの脳内で大きな顔をするようになり、その挙げ句私たちをさんざん迷わせることになります。
意識が発生すると言うことは脳内にデータ同志の角逐によって生じる刺激がある程度持続していることを示しています。
結果報酬系を絡めた擬似的な充実感(と仮に表現します)を発生させることになり、快感に弱い我々はますます「意識先行の癖」を排除するのは難しくなってゆくのです。
現状では私は意識という現象をこのように捉えています。
未だよくわからない、整合性のない部分もありますが、ひとまずこのようなものとお考え下さい。