心という現象と脳
心という現象と脳
最近クライアントの方達とお話をしていて気がついたことがありました。
そのひとつは意識=心という認識をされている方が圧倒的に多いということです。
意識という現象は、言ってみれば「記憶やそこから想起される思考を明確にするためにある追認反応」で、記憶で出来ている山のようなる書類の中から重要なものを抜き出し、何度も何度も読んで重要フォルダーに仕分けるためにある反応と思えば大体あたりだと考えます。
思考は主にこの「重要書類同士出来たストーリー」で形作られ、先を予想し、ストーリーそのものを強化するためなどに使われます。
このややこしい脳内状況が(人によっては)さらに複雑怪奇な結びつきをし、あること無いこととごちゃ混ぜになって“私たちという幻想”の主導権を握っているのが「心」の正体だと私は(現状)結論づけています。
何しろ命令系統の中枢内部で、これを効率的に動かすために出来上がった(その人特有の)フォーマットなので、それ自体のどこに問題が生じているのかを内部からでは原則的検証できないような代物でもあります。
卑近な説明をすれば以下のようになるでしょうか。
体という会社があり、中枢部分(中枢神経系)で現場から上がってくるデータを扱い会社全体の舵取りをしている。
膨大な量の現場の声はとてもすべてを記憶したり分析することは出来ない。
至上命題である「死から遠ざかれ」という圧力(本能)に役立ちそうなものだけをピックアップし、過去のデータベースを参照しながら重要なデータを抜き出し、情報化する。
この際、文章化(言語化=私たちにとっての情報)するため加工業が必要になる。
記録の記憶化である(事実の歪曲とも言う)。
この一連の作業において重要書類に当てるスポットライトが「意識現象」である。
これはイメージだけではなく、言語という一般性を持った表象に情報を落とし込む機能もあり、中枢(脳)主導型である私たちにとっては極めて重要な反応と言える。
一方で経営陣である中枢それ自体も「出来れば面倒なことはしたくないし、自分たちの利益だけ守りたいなあ」という基本性質がある。
脳という臓器は極めて効率を重視するからである。
また、過去のデータ処理時に起きた事故や負荷は会社全体の挙動と合わせ中枢を揺さぶり、同じような状況下ではリアクションが限定されるという性質も持ち合わせている。
これが「体のことよりも自分たち(脳)のしていること自体に矛盾が生じなければそれでOK!」という、上に立つものとしてはあるまじき不埒な方針を重要視する背景となる。
これは当然現場である末梢の反発を招き、経営方針と実際の乖離を徐々に大きくする。
そこで中枢は現場からのデータを無茶苦茶な形で加工し始める。
自分たちの方針に都合の悪いものはなかったものとし、都合の良いものだけを取り込もうとする。
結果、ありもしないストーリーを「会社(体)にとって最も大切な守るべきもの」とする本末逆転現象が起きる。
この(幻でしかない)守るべきものを巡る矛盾だらけの反応の一群を「心」という。
いつも通りわかりづらさこの上ないかも知れませんが、この二つが混同されていることにびっくりしていました。
2つ目に気づいたのは・・
「俺だって昔は全然区別なんてついていなかったクセに、そのことを忘れてえらそうに考えていた」自分の間抜けさです(ハァ・・)。
まあ2つ目はおいておく(棚に上げる)として、1つ目の事実が「心は簡単に科学できる」と考えられていることにも最近気がつきました。
これは21世紀に入る前後から、コンピュータ支援診断、あるいは脳画像手法と呼ばれる方法が進化してきたことに起因すると思われます。
その代表的なデバイスとして機能的核磁気共鳴装置(fMRI)が挙げられます。
これは簡単に言うと「脳のどの部分がより興奮している(=酸素消費量の増大がある)のかを(ほぼリアルタイムで)みることが出来る機械となります。
これ自体は素晴らしい発明であり、より洗練されてゆくことを個人的にも願っている次第です。
ただし「どのモジュールが興奮しているか」を大まかにみることは出来ても、その感度や空間分解能は脳のリアクションに必要な最小限度の神経発火や領域を特定できるとは限りません。
つまり「よく見えないものが(たくさん)ある」というわけです。
また時間分解能も経頭蓋磁気診断装置には及ばず、一定のタイムラグがあると考えられます。
例えばですが、
恐怖を感じると扁桃体が興奮する。
もうほとんど一般化したようなフレーズ、概念ですが、本当なのでしょうか。
扁桃体の稿でも書きましたが、このモジュールは大まかに言って三つにわけられます。
危険度を評価する基底外側核
内臓の固有感覚を監視する中心核
主に性刺激に関する反応に関わる皮質内側核
にわけられます。
同時にA10神経という報酬系に関わる入力も受けています。
単純に考えるなら 危険のあるなしを評価したとき 内臓の平滑筋に変動があったとき 性刺激に関わる反応があったとき そして報酬系に興奮する状況下でその酸素消費量が増大しうる、となります。
巷間よく言われる「恐怖は扁桃体で感じる」という物言いは、極めてキャッチーではあるものの、同時にナンセンスと言えるフレーズです。
心的状況は常に変動していますが、それらの「思考」が意識されるには、単独のモジュール/領域だけの興奮では成立しないこともわかってきています。
ネットワーク、つまりモジュール間のやりとりやそれらで作るサーキットが「心的状況」を作るという発想が今のところ「正しい」と考えられています。
特定のモジュールが「心のありか」だとする前時代的な考えは、脳科学が発達している21世紀ではもはや古典的とも言える考え方になっています
一言で言えば古いのです。
扁桃体が障害を受けると恐怖が感じにくくなるのは正しいですが、fMRIによる「扁桃体の酸素消費量の増大」が観察されるからと言って、恐怖を感じているという判断は明らかに「間違い」と言えるでしょう。
もうひとつ。
脳は可塑性という性質を持っています。
これは「使い続けているうちにその接続が(構造的にも機能的にも)強化される」というものです。
同時にこれは「使い続けているうちに効率化される」とも言えます。
シナプス間(神経間隙)においてはこれは「強化」ですが、軸索というモジュール間を結ぶ線維においては「効率化」を意味します。
信号が沢山流れると、よりスムースに反応しはじめると言うことです。
当然モジュールそのものの発火も効率化されます。
これが意味するのは「血流をチェックするfMRIではその反応が検出しづらくなる」であり、個人の現状を正しく推し量ることは、問題が長期化しているケースでは困難であると推測されます。
血流の状況がわかる。
これははっきり言って革命的ですが、このことで意識現象を含む脳内反応が複雑に絡み合った結果生じる「心的状況=心」が解明されると考えるのは早計に過ぎると言わざるを得ません。
科学は沢山のことを私たちに教えてくれます。
その結果得られるものもそれ以前とは比べものにならない完成度に達しています。
しかしやはりここにも安易な考えや結果を焦ることによる「誤報」が満ちあふれているとみるべきです。
意識や心が脳という臓器なしでは成立しない。
これは「間違いない」と断言しても良いでしょう。
しかし脳はそれだけで成立しうるシステムなのか。
そしてそれ以前に私たちが脳をどれくらい理解しているのか。
心という現象のフィールドがどのくらいの拡がりを持つのか。
こんな疑問に答えてくれる科学的な事実はまだないように思えます。