再起動の意味を改めて考えてみる
再起動の意味を改めて考えてみる
先日のFBへの投稿で「病気は機能制限が積み重なり、その部分の代謝が低下した結果だ」「我々がすべきは修理ではなくあるべき状況、動きを可能な限り回復させ身体の再起動を図ること」とお師匠様に言われた、みたいなことを書きました。
正確な文言は違ったかもしれませんが、概ねそんな意味のことだったと記憶しています。
これらの意味をもう少し考え直してみようと思い立ったのが今日。
もう数十年前のことですが、しょうもない若造だった私に先生がおっしゃる真意などわかっていたはずもなく、しかし今思い返してみるとまさに!という印象を改めて受けます(先生ごめんなさい)。
もちろん病気は代謝の低下が全ての原因ではありません。
ただ私たちの立ち位置から考えたとき、それはある意味「真理のひとつ」のように思えてきます。
代謝、つまり取り込んだモノを自分の活用できるかたちに変化させ、使い終わって不要になれば出しやすい形に変化させて出す。
生命活動の本質的様態である動的平衡を維持するために私たち生き物は常にこれを行っています。
これは個人的な感想を含みますが、検査特に触診によるそれを行っているとき、問題のあるエリアは硬く古くなったスポンジや水に浸す前の高野豆腐であるかのような印象を受けます。
ケースバイケースですが、この硬くなったエリアの周囲では硬さに引きずられるように周辺或いは関連部位の動きが小さくなっていく傾向があります。
硬くなればその結果組織間の"隙間"が小さくなり、当然そこを通過する血管も硬く血流によって作られる波打つような動きも制限されることが予想されます。
血流も低下するでしょうし下水道であるリンパシステムも効率が下がるでしょう。
ということはそこで受け渡しされる栄養、不要物の交換効率も下がり、結果として代謝活動も下がってくることが考えられます。
様々な要因が作るこの効率の低下はもちろん生命活動を維持する上での足かせになるのですが、自力で元の効率に復元できなければその状況に適応していくしかありません。
生命反応の大原則の一つは「効率よりも安定」であり、多少問題があっても安定的つまり全体としての変動が少なくなる方向に向かいがちです。
これが続いた結果、そのエリアでは恒常的に受け取るエネルギーの不足、それを補うための代替エネルギーの入手、不要物(これはエネルギーの多寡に関わらず一定量前後は出ると考えられます)の排出量が下がると推測できます。
食べるものはないから他からそれっぽいものを持ってくるけど、料理に手間がかかる割に栄養が不十分でしかも多めに出てくる燃えかすはうまく運び出せず溜まりがち。
これが家の中なら遠からずゴミ屋敷の完成です。
十分病気の素地になり得る。
私はそう考えるようになりました。
もっとも一度「病気」つまり修理が必要になったときはそう簡単に戻りません。
だから私たちがすべきはその前の段階までがほとんどですが、ともあれゴミ屋敷化を防ぎ溜まったゴミに火がついて火事にならないよう効率よく排出できるように、そしてまた十分な栄養を受け取れるようにしたい。
そのためにはゴミ屋敷化寸前になった理由はともかく、硬い領域が再び柔らかく動くように持って行きたい。
そして柔らかさを失った理由を出来れば突き止めて再び硬くなることがない、或いはそうなりづらい状況にまで復元を後押ししたい。
組織や器官が壊れる、つまり病気と認定される状況は完全な破壊から動きや機能を極限まで絞った結果そのように見えるケースまで様々のように思えます。
病理が進み完全に動きを止めている、あるいは物理的な損傷が激しく自力での復元が全く期待できないケースではもちろん治良は役に立ちません。
修理の専門家に任せるのが最善です。
一方一見壊れているように見えてただ組織や器官が「冬眠モード」になっているケースも多々あります。
これも先生がお話になっておられたのですが、器官も組織も壊れる前に動きを止めて自衛することが多いとのこと。
当然標準医学の検査でまずいと言われる結果が出てくる段階です。
しかし機能や構造は維持されていて復元可能な段階でもあり、自身の保全を最優先にしているだけなので復活のためには修理よりも調整が必要というパターンです。
伝統的な中医学で言うところの気も血も津液も不足していて、まさに干からびていると表現できるような組織器官はそれ自身や関連部位に適切な刺激が加わると活動を再開することがあります。
間質が動き出し血液の供給や不要物の排出が再び始まり機能ユニットもそれに呼応して動き出す
師匠のおっしゃっていた「再起動」はこれを指していた、と今ならわかるのですがあの時の自分ではなあ・・・と自分のしょうもなさ一杯だった時期を少し残念に思うのです。