仏教概論:番外編
仏教概論:番外編
詳しい人から見たらいい加減なことでしかない文章を書き連ねた仏教概論1から8でした。
当然私のバイアスがかかりまくりなので、3割くらいで読んでいただけるとありがたいなあなどと考えております。
が、一つ思い出したことがありしつこいですが番外編として書いてみます。
仏教特に初期仏教においては、その修行の基本は出家でした。
これはその方が良い、といったものではなくすべてを捨てることが必須の修行をはじめるに当たり必ずしておくべきことでした。
その出家者の集団を「サンガ(僧伽)」といい、ここでは非常に厳しい戒律がしかれていました。
そして修行は基本独りで行うことであり、常に考え続けることをその中核においていたようです。
同じ志の人間が集まりながら、そのメインである修行は独りで行わなければならない。
なぜそうする必要があったのか。
三人寄れば文殊の知恵ではないのか。
意見の持ち寄りがなぜ推奨されなかったのか。
孤独という言葉があります。
今更説明の必要もありませんが、集団生活を基本とする人間にとっては結構やっかいな感情を喚起するものであり、簡単に私たちの心をむしばみ得る、ある種の人たちにとっては強力な敵と言っても過言ではないかも知れない状況です。
一方その有用性効用というのも明らかにあり、人間はこの状態に置かれると「否応なしに自分の内部をみるようになる」という性質があり、心身の成長のためには絶対に必要なシチュエーションともいえます。
当然内省がその重要な修行プロセスである仏教においては、むしろこれがないと困ると言った必要条件にすらなります。
脳の基本性質の一つに“案外休養しない”があることは少し前に書きました。
様々なデータが入り込んでくる状態、そしてそれはごく当たり前の状態ですが、において、私たちは自分に今必要と思われるデータを拾って情報に成形し直します。
ところが四六時中休みなしに起きる変動に対していちいちこれをやっていてはとても持たないので、何かにフォーカスすることによって、とりあえず無意識レベルで興味の無いデータをカットしている時間が実は圧倒的に多いのです。
この状態では自身の内部を詳細に観察する機能も制限され、自動的に生理的な上限に合わせた行動思考をとるようになります。
そしてデータやそこから作られる情報のオーバーフローが始まると、何らかの形で放出、解消しようとします。
いわゆるストレス発散ですが、現在日本で最も手っ取り早いのは飲み食いであり、汗をかくなどをはじめとしたエネルギーの消費も重要な方法になります。
女性であれば誰かに話を聞いてもらうなどがあるでしょうし、カラオケなども結構楽しそうです。
要はたまったエネルギーとともに内部のデータを削除することが目的なのです。
さてこららのフラストレーションの解決は生体を運営してゆく上でとても重要な行動ですが、同時にこれらの負荷によって強要される内面の見直しを忘れさせることにもなります。
もちろんものごとには限度がありますから、あまりいらいらしながら内省するよりもさっさと飲みに行った方がよいケースもあります。
ただすぐに内面の不満や寂しさを自分の外へ漏らしてしまう癖がつくと、何が原因でそうなり自分がこれから同すべきなのかをゆっくり見直す機会が無くなってしまいます。
釈迦が他人との交わりを嫌っていたという記述がみられますが、おそらくそのことが理由ではなかろうか、つまりコミュニケーションやストレス発散が内面を極限まで観察するための妨げになるのと考えていたからだろうと推測します。
たまったストレスの原因は何かを考え、そしてストレスを推進剤としてまた前へ進めと、釈迦は言いたかったのかも知れません。
日経サイエンス2014年12月号の中に、やはり過剰なコミュニケーションがもたらす孤独の喪失とこれによる内省の明らかな減少についてのインタビュー記事が載っていました。
新しい時代のツール、デバイスがもたらす新しい生活は常に非難の的になるのが世の習いですが、携帯電話、ネットが作る「いつでも誰かとつながっている」状態は単に「最近の若い者は」的な話で終わるのか、それとも人間、歴史の大きな分水嶺となるのか。
仏陀の教えに人間の本質をみている私としてはとても興味深いことと感じています。