仏教概論27
仏教概論27
感じて、許す仏教を読んでみました。
講義ライブだから仏教は面白い以来、魚川氏のファンである私は、今回もとても感じ入るものがありました。
仏教徒ではなく、もちろん僧侶などでもない私が「仏教に興味がある」というと結構怪訝な顔をされます。
まあ仁王のようなご面相(笑)だからかとも思うのですが、興味を持った理由は開祖ゴーダマシッダールタ=仏陀(目覚めた人)の考え方に「救い」を見たからと言うのが最大の理由です。
他人に救って欲しいとは思わないものの、どうにかしてこのごちゃごちゃした頭の中から生まれるせわしなさから逃れたいと思って50年以上になります。
10年くらい前から「ああ、俺っていちいち物事に意味をつけたり自己正当化をしているんだな、どうやら悩みの一番大きな背景はこれらしい」と気がつきました。
そこからあれこれ勉強をはじめて仏陀の主張=初期仏教に行き着き、以来これが私の考え方におけるランドマークになっていました。
この初期仏教に対して、仏陀の死後勃興したもののひとつに「大乗仏教」というものがあります。
日本で目にする仏教と言えば基本このタイプで、ついでに言うとこれ+中国の思想が混じった「北伝仏教」がその正体(あるいは原型)だと言われています。
私個人は、こちらの方には全く興味が無かったのですが、「感じて、許す仏教」を読んで少し考えが変わったかも知れないと認識するようになりました。
以下は私の稚拙な理解に基づくものと思って下さい。
仏陀という超人(であり社会不適合な人)は、「おまえの悩みの原因って物事をきちんと見ていないのが最大の理由だから」と喝破し、その理由とお悩み解決法を提示しました。
それどころか修行以外のことをしなくても生きてゆけるような方法を実践し、そのための集団とその内部法律を作り、死ぬまで他人のお布施に頼りながら修行と布教以外のことを一切せずに入滅しました。
いくら当時のインド周辺の人たちがお人好しとはいえ、やはり世界で最も気の長い国民性故に持ち得た冗長さがあったのでしょう。
その仏陀は「生活は私の言うとおりに、後はとにかく考えて考えて考え抜いて真理を会得しなさい」というスタンスでした。
いまでもこの方向性が最強だと思う反面、とてもまねなんか出来ねーよと思う私も存在まします。
一方、治良という方法を通して得た実感は以下のような考え方を私にもたらしました。
・もっとも安定した状態への誘導は、こちらが主体的にものを考えていない方が楽に行える
・そのためにはごちゃごちゃ考えている自分を修正するのではなく、そんな「理想通りでは無い自分」をまるごと観察する
「感じて、許す仏教」を読んで私が思ったのは「あれ?普段使っているこの考え方ってもしかして大乗仏教のテクニックかな?」でした。
もっと言うと「仏陀みたいな超人じゃない、自分を凡人と認識した各宗派の開祖が“代替案”として採用した方法なんじゃねーの?」と思った次第です。
親鸞などに自分をなぞらえるのはおこがましいにも程があると、いくら図々しい私でも思ってしまいます。
同時に、極限まで考えること、そしてそのための周辺環境を用意実現できない自分にできるのは、そんな「いまいち突き詰められない自分」を冷静に見つめ直し、最大の治良効果を得るために判断を無理なく停止させることだったわけです。
気合いや根性で停止させるのは「意識的に意識を止める」様なもので、ちと無理があるというか、結局は「自分脳内世界」から出られないわけで、クライアントの状態を変えるのは難しいと感じています。
だから“自然と判断できない状態にする”しか方法が思いつかず、気がついたら「初期仏教じゃないな」という地点に来ていました。
これはこれで効果的であると感じている以上問題は無かったのですが、「ハテこれってなんだろうな?」と疑問に思っていたことも事実です。
抹香臭くて理屈っぽい(おまえが言うなと言うなという話ですが)と言う思い込みで、食わず嫌い状態の大乗仏教ですが、どうやらこっちの方が凡人たる私にフィットしているのではないかと考えはじめています(勉強中ですけど)。