越田治良院へようこそ あなたのココロとカラダをリセット

仏教概論18

FrontPage

仏教概論18

現代日本における一般的な仏教は、いわゆる「大乗仏教」というもので、私がここであーだこーだと書いている仏教(初期仏教)とはかなり異なるものとみるべきです。
釈迦の死後、いろいろあって分裂変質したものが中国に流れ込み、きわめて強い即物的な安定性を求める当地の文化と融合し、私たちが触れている仏教の概要ができあがりました。
6~7世紀にかけてこれらが日本に輸入されると、たちまちのうちに政治的な道具として利用され、その偏向に拍車がかかってゆきます。

2500年前仏教は「仏」陀(目覚めた人)釈尊の「教」えであり、その内容は「個人の(主に精神的な)苦悩解決法」とも言えるものでした。
その後弟子たちや受け継いだ人間の解釈が優勢になり、その上バラモン教に吸収されるなどして原型が失われかけますが、当時の教えに近い考え方は現代にも伝えられています。
初期仏教とは釈迦その人の哲学であり、哲学が私たちそのもののを微分するものとすると、「私たちの存在を定義し、その手法は科学に近く、最も根源的な悩みを解決しうる修身法」という説明がその本質に近いかも知れません。

さて、いつものように長くくどい前置きになりましたが、この稿では初期仏教が私たちの「善悪」を規定しうるのか、と言うお話を書いてみます。

釈迦が提示した重要な考え方に「縁起」があります。
「事象における生成消滅の流れ」のことですが、よい行いはよい結果を、悪い行いは悪い結果を招く、ともあります。
通常私たちが現代社会で暮らす上での「良い悪い」は法律としても、また一般的な倫理上もある合意の上に成り立っています。
地域や時代によって多少の差はあるものの、どの時代どこの国でも重度の逸脱と認められる行為もあれば、さほど罰せられない問題というのもあります。
やはり殺人は大きな罪とみられますし、特殊な事情が無い限り「変な顔」をしたからといって捕まることは無いと思われます。

ある合意と書きましたが、大まかには以下のようなものであろうと推測します。

・あなたを加害しないからこちらにも危害を加えないでね
・あなたの財産を侵さないから私の財産にも手を出さないでね
・お互い困ったときは助け合いましょうよ

「個人の権利」という発想です。
まずこれがはじめにあり、相互に侵害しないためのルールが形作られてゆきます。
それによって規制が妥当であると認識され、犯したものには集団が強い圧力をかける「法」ができあがってゆきました。
この結果集団の中で不意に襲われるリスクが低くなり、様々な活動思考が可能になってゆきます。
当然これらのルールの根底に流れる思いは「死にたくない、出来るだけ快感を得たい」という、脳の基本原則から生じるものであり、これが色濃く反映されているのは言うまでもありません。
同時に生き残るための効率的な手段としての「集団生活」において、他人との協調が自分の集団内での地位=上にいるほど生き残りやすくなる、を高めると言うことを学習するものが出てきました。
圧倒的な力で他のものを押さえつけるタイプに比べ、これらの協調路線をとるタイプは恨みを買う(=生存確率を低下させる)確率が低く、かつ多少の効率の悪さを補ってあまりある成果を集団にもたらすコトが多くなるのを、周囲の人間も理解してゆきました。

自分だけではなく多の人間にも有益な思考行動は、より大きな利益と高い安定性を集団ひいては個人にもたらす。
多かれ少なかれそういうものであると言うことを、時代とともにほとんどの人間が理解してゆきます。
いちいちそんなことを説明できない事情もあったのでしょうが、これを問答無用のものとするために倫理や宗教の名を借りて教育してゆこうとする人間が出てきます。
彼らは個人あるいは集団に不利益をもたらす蓋然性が高いことを「悪」と呼び、逆に利益をもたらしやすいことを「善」と名付けました。
そしてそれを長い間かけて「(日本では)道徳」として浸透させてゆきました。

通常言うところの善悪の大半は実はこのように作られた概念で、集団内における逸脱が自分の身のみならず他の人間の生命までもが危機に直結する時代(それは割と最近までですが)においては、ほぼ絶対的と言ってよい指標になっていました。

翻って「初期仏教における善悪」とは何か。
同じように権利保護の発想から来る倫理をベースにした概念を指すのでしょうか。

これはもう明確に「否」です。

仏陀釈尊はあくまで「覚り=苦悩からの脱却」にしか興味が無く、その超人的な頭脳で覚りへの道を“一般化”することに成功しました(例外もありますが)。
その際修行三昧の体勢をどうしたら維持できるかを考え、まず「してはいけないこと」を制定しました。
修行に障りが出ること全般。
女犯だったり経済活動だったり、嘘をついたり生き物を殺すことなど、事細かにそれらを言い伝えたそうです。
つまり「それをしたら修行の妨げになり、結果として覚りからは遠ざかる」コトを厳しく戒めました。

自分の口は自分で糊しろ。
現代では当たり前に、いやそれ以前の社会でも最低限の“するべき事”とされてきた考えさえ、悟りを開くための障害となるので禁止されていたわけです。
それ故に食べるものの確保をはじめとした生産、経済活動は完全に外部任せ。
私の修行を支えてね、と言う「あまえんじゃねーよ!」と言われそうな主義主張によって思索三昧の集団(サンガ)を維持しておりました。

社会発展も社会不安も私にはどうすることもできないし、それ以前にどうする気も無いのでみなさんよろしく!
そんな“個人が超優先で非社会的な思想”の側面をもち、社会に対してで言えば「ろくでもないことばかり吹き込む」集団が、当時の仏陀釈尊の教団であったようです。

そんなわけで社会的に是認されている、あるいは強制される善悪と重なるところは多々あるものの、初期仏教の視点からいうそれは、善悪の分別の意味が全く違います。
それどころか上述したように「非社会的な行動思想を善として推奨、場合によっては強制していることもある」ワケで、子供たちの道徳の時間に教えるにはちょっとどうかな、と個人的には思います。

そもそも我々人間という動物は本質的に

・なにはともあれ捕食し睡眠をとる必要があり
・そのためには可能ならば集団でそれらをシステマチックに行う方が効率がよく
・効率が上がれば生存確率も上がる

と言う側面、つまり「生理的な生存条件を満たす必要」と、

・脳が生存確率挙げようとする過程で生じる”出来るだけ楽に、そして可能ならば快感を感じるパターン”をなぞろうとする特性
・それは実は脳にとって何よりも重要なもののひとつである
・それらの事実が錯覚させる「自我という名の楽したい経路」という現象から離れられない

と言う側面に振り回され続けるよう出来ています。

生理的危急をまず克服し、その後脳が楽をするための経路である自我という現象を継続させるよう行動する。
極論かも知れませんが、私たちの行動原理を言い表す文章としてはそう間違っていません。

釈迦は元々「王子様」だったので、前者の「食べること眠ることをまずは確保」という問題については「何それ?」的な意識しか持ちあわせていませんでした。
むしろ「おいおい、病気や老い、その先にある“死”なんかに恐怖することのほうが大問題だろ?」と言い切るほど、肉体的な困りごとに関しては興味がうすかったようです。

そんな彼が他人様の、それも社会という自分を全く救ってくれないどころかなじめばなじむほど基本的な不安要因を増大させるようなシステムが決めた「善悪」なんてものに迎合したり適合しようとするはずがありません。

悟りを開くために必要か邪魔か。
仏教の言う「善悪」「善因善果悪因悪果」とはそういう意味なのです。

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL.

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional