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プラセボに関して思うこと 3

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プラセボに関して思うこと 3

では私の治良、あるいは治療はどのように「体を治し維持する力」なるものを、患者さんに反映させているのでしょうか。
言い換えると、自然に体を治してくれている(はずの)力があるとして、なぜ私たちをはじめとした仲介役なるものが必要なのでしょうか。

プラセボに関して思うこと 2で「科学にこだわりすぎると良さが失われる」というようなことを書きました。
これはあくまで個人的な意見なのですが、その(うーんと思える)理論に沿いすぎて客観性を持たせようとしすぎたり、あるいは体に起こる反応を定量化しようとするのは、毎回ワンオフをその旨とする私たちにとって、十分にリスキーなことなのです。

どうやら私たちの想像力というのは(多少の差はあれど)思いの外低い限界に制限されているようで、この想像力の範囲に収まるような道理というのもまたそれほど高度とは言えないものが多いようです。

私が最初に修行させていただいたのは浄土真宗のお寺が母体の整形外科でした。
先生は医師であり住職という方でした。
その方がよくおっしゃっていたことは「人が治すのではない、仏様がお治しくださるのだ」ということでした。
馬鹿な私は「何を言っているのかちっとも分からん」と、まあ文字通り罰当たりなことばかり考えていました。
治療師が治さず誰が治すのだ!くらいに思っていましたから、あの頃のことを思い出すたび本当に救いようがなかったなあとため息が出そうになります。

何度も書きますが、どうやら治癒という現象は私たちの想像あるいは認識外の領域で起きている。
少なくともそう考えたほうがより話の筋としては通りやすいように思います。
では想像外にある領域とはどのようなものか。

答え:想像もできなければ文字にするのはもっと無理、なもの。

最近「もしかして先生はそのことを“阿弥陀様の救い”という表現でおっしゃっていたのか・・・」とぼんやり考えるようになりました。
馬鹿でその上経験も無い私に、いきなり「想像できないもの」といってみてもわかるはずもない。
先生はそのことを見抜いていらしたのでしょう。
ただ先生が見落としていたとすれば、この私が想像外の阿呆(笑)だったということでしょうか。
そんな柔らかい、しかも日本人に比較的なじみのあるお話をしてくださっていたのでしょうけど、当時の私には全く理解できませんでした。

親鸞上人は徹底して「他力」ということを説いていらしたようです。
最後には「念仏を唱えていれば救われる」と考えることさえ阿弥陀如来のお力なんだ、だからすべてを忘れてもOK。
そう考えていたとか。

相変わらず「信じ切る」ことが苦手な私は、なかなか任せきる心境にはなれませんが、おっしゃることは何となく理解できているつもりでもおります。
私は治癒の源は親鸞上人のおっしゃる「他力」と同じように、こちらの想像する治癒を超えたところにあると読んでいます。
表面的な意識や精神活動はどうあれ、そういった概念がなじんでいる人ほどシステムの回復は早いように思っています。

さてここで当面の、そして最大の問題は「どうやったら信仰心とは無縁の私が、”他力”つまり任せきるという心理状態を手に入れられるのか」です。
なんだかあれこれほしがっていてしかしそう簡単に手に入れられない人間に向かって「金持ちになったらいいじゃない」と言っているような、そんな心境でもあります。
とてもシンプルだけど、そこに至る道は決してシンプルでもイージーでもない。
次回はこのことについて考えて見ます。

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