コミット
コミット
辞書によると
約束、義務、関わり合いをもつ
という意味を持つ言葉であるようです。
これは私達の仕事もで良く用いられる言葉です。
ただし契約、約束をするというような意味合いではなく、どちらかというと「深入りをする」ようなときに使われることが多いと感じています。
治良、少なくとも私が行う施術に関しては、接触している指先、腕、上肢帯から体へ伝わるうねるような動きをはじめとし、表現も解釈も難しいような感触まで、あらゆる感覚を動員して状況の捕捉を行います。
きっとどんな対人業務(適切な表現が見つからないのでこう書きます)においても、相手に対して全く気持ちを入れずにいられるものではないのではないか。
私はそう考えているのですが、しかし同時にこれらがいきすぎるといわゆる“正しい評価”というものが難しくなります。
経験を積んでくるに従い、この“コミットする”事から離れてゆくセラピストが大半なのは、上記の理由がそのひとつではないかと思われます。
しかしそもそもが「よくわからないものを客観性の薄い基準で判断する」のがセラピストの仕事であるとも言えますから、離れれば離れるほど違和感を感じるというのも、仲間内の話ではよく聞くことです。
いわゆる“科学的基準や手段”だけでは解決できない問題が多いというのも、臨床にたつ人間であれば必ず持っている感想であると言っても過言ではありません。
ですから知識や経験からなる独自の基準に重きを置くのもあながち無茶なことであるとは言えないでしょう。
そしてこの“自分基準”においての補強材料の一つとなるのが、相手に対する思い入れではないかと最近感じています。
ただしそれは自分勝手な感情移入や押しつけではないのは言うまでもありません。
単に相手と融合することととも違う、相互に「何かを」シェアし合うという(なんだかよくわかりませんが)ものではないかと“感じて”います。
コミットなしでは不十分な問題も、コミットすることによってより深刻な状態からの回復をみる。
きっと多くのセラピストは「絶対違う!」とは言わないはずです(たぶん・・・)。
もちろん客観性のある、説明可能な評価からは必然的に離れていくこともありますが、相手にわかりやすいところで問題を説明できるケースも増えてくるかもしれません。
矛盾しているようですが、客観性のある、言い換えると状況の限定的な捕捉や描写も「説明できない感覚の一部」と受け止めることが可能になる心境になることも珍しくないようです。
心理学はもちろん文学的素養もほとんどない私が書くことは、よくわからないことだらけになりやすいのですが、クライアントのみならず定義不能な領域でのコミットはこれからも続けてゆこうと思っています。
しばらくは戸惑うでしょうが、しかし確実な手応えを感じている自分の感覚を信じて。