イメージについて 2
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最近こんな話を聞きました。
「昔の歌謡曲はひとつのストーリーがあり、まるで一本の小説のようだった。短い言葉やメロディーの中に情景を彷彿させる工夫がなされていた。
それに比べると最近のPOPSはまるでブログだ。自分の言いたいことを薄っぺらい言葉で綴っているだけで、人様にお金を払って聞いてもらうようなものではない」
勿論これを言ったのは昭和の人でしょうから、そのまま現在の批評として鵜呑みにするわけにはいきませんが、個人的にはこの意見に賛同します。
また別の人は「苦しいこと、辛いことを苦しいあるいは辛いように書くのはだれでもできる。そしてそれほど傲慢なことはない。それを乗り越えちゃんと人様に見てもらえるようになるまでにしてから書くべきだ」と書いております。
なるほど芸事、そしてそれにお金を払ってもらう人たちの見解というのはなかなか含蓄に富んだものだと感心しました。
私は何かを極めた人間ではないのでそれ自体の是非について偉そうに述べられるわけではありません。
が、治良屋としてこれらの見解について思うところはあります。
不満の垂れ流し、あるいは自分語りがもたらす効能については、ストレス処理に関しては有効であることを認めるに吝かではありません。
これは消化不良で苦しい時に嘔吐をするととたんに楽になるのに似ています。
キャパシティーや機能の関係から、私たちは体内にとどめておける事柄に限界を持っています。
それは心理的プレッシャーに関しても同じで、いろいろな経験をつむうちにその耐性を育てていきます。
そのプロセスの中に「悩む」「我慢する」というものがあります。
当然本人の中では「理不尽である」と思うから”悩んだり我慢したりする”わけです。
しかし制限のある環境の中でどのように振る舞い、そして落とし所を探すかを考えるうちに「自分が正しいあるいは論理的だと考えていることってもしかしたら自分を苦しめているのかな?」ということに目が行くようになります。
つまり自分の未熟さ、幼さに気がつく過程があるのですが、これが耐性を向上させそして内部のキャパシティーを確実に拡げてくれます。
一方イメージですが、ここで言うのは「自分の心身と付き合っていく上で有効なイメージ」ということに限定して考えてみます。
この”有効性のあるイメージ”というのは、冷静な観察眼があっての話ですが、冷静な観察眼とは大抵自身内部の”理解”とは相容れない所で成り立っていることが多いようです。
私個人の恥を晒すようですが、わたしなぞの理解というのは概ね個人的願望をベースに成立しており、個人的(都合の良い)願望というのはありのままを記録し分析する上で最も厄介なファクターであります。
さてもうお分かりかと思うのですが、冷静な観察眼というのは自分の内部に抱えていることを出さずにはいられない状態では十分に養えないというのがこの稿で申し上げたいことなのです。
つまりある程度心理的プレッシャーに対する”我慢”が効かなければ、正確なそして有効性のあるイメージを作る前に、内部の(浅薄な)欲求に振り回されてしまい、いつもそのことに翻弄されることになります。
ストレスに対抗し、有効なイメージを持つためには「正しく悩んでみる」という経験が必須で、そのためには悩みを一度自分の中で(苦しみながら)反芻してみることが必要になります。
治良においても都合の良い理解、納得を求めて安易なイメージや解釈を優先する(それは私達のような対人業務においては陥りやすい問題ですが)と、理解の外にある問題に対して適切な判断をする機会を失うことになりかねません。
自身の不満や不平を垂れ流すことにより起きるすっきり感と、原因追求に対する意欲の喪失、ベネフィットとリスクに関して、十分に教育していくことが必要であると私は考えています。
ブログへの心情の書き込み、相談や愚痴の言い合いは時として必要だと思いますが、それを安易に垂れ流すことによる弊害についても十分に考慮してみる必要があると、自戒の意味も込めて申し上げるものであります。