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運動って何?

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運動って何?

感情とはそもそも何なのか:現代科学で読み解く感情のしくみと障害を読んでみました。

ちょっとだけ難しかったのですが、脳の働き(特に情報処理のそれ)は「自由エネルギー原理(FEP)」によって説明可能、というコトがわかっただけでも頑張って読んだ甲斐がありました。
以前にもFEPに関するペーパーは読んでいたのですが、いかんせんその道の専門家がやはり専門家に向けたものだったので読むのが大変だった覚えがあります。
しかしどうやら「脳という閉じた系内ではエントロピーを減らす方向へ向かいがち」なコトはなんとか理解できました。
そのことを今回この本を読んで「なるほど」と改めて納得した次第です。
この本で成されている主張の蓋然性が高いとすればですが、今まで「そうかも」と考えていたことがそれほど間違っていなかったように思えて喜んでいます。

度々このサイトでも似たようなことを主張していましたがFEPに立脚してみると

・脳は面倒(サプライズ)を嫌う

のは必然かつ動かしようのない事実みたいです。
問題はその方法です。
脳は原則「自分の周りの世界はこんな感じ」という予想を常に立てています。
視覚で言えばトップダウンの「こんな感じのはず」という予測と、実際に入力されたボトムアップデータを比較し、予測誤差を修正したり無視したりしながら外部の状況を把握(思いこみとも言う)しています。
原則この「事前予測」みたいなイメージはそう簡単に(大幅には)書き換えられませんが、他のボトムアップデータによって誤差が大きいことが判明すれば書き換えが実施されます。
つまり「脳内サプライズ(=予想とは違うあれこれ)を減らす或いは回避する」方法の1は「勝手に設定していた世界観を書き換える」です。
これによって現実と脳内世界との乖離(脳内エントロピーの増大)を少なくしています。
・・・・とこの本には書いてあって、正直これは「そうだろうね」という感じですが、問題は次です。
この本ではこれを「能動的推論」と書いています。
ちょっと抜粋してみます。

前述のように、自由エネルギーを最小化する方法は二つある。一つは知覚においてみられるもので、予測誤差を最小化するように予測を書き換える方法である。もう一つは、予測と一致するように感覚データをサンプルする方法である(P137より抜粋)。

この後半部分を能動的推論としているわけですが、これが何というか「えー!」と言った感じでした。
感覚データのサンプルというのは乱暴に言ってしまえば「脳内反応に都合の良いようにあれこれする」となります。
それを実際に可能にすることのひとつが運動という「出力」なのですが、このことについて「脳内では知覚と運動の区別はない」という驚きのフレーズで説明されています。

運動についても、自由エネルギー原理では従来とは全く異なる観点でとらえられる。運動の目標とは、その運動の最終状態となる筋骨格系の状態、より具体的に言えばその状態の時に筋肉のセンサからでる自己受容信号であるととらえられる(P132より抜粋)。

ちょっとなにいってんのかわかんない。
それが最初の感想でした。
ただよく読むと「脳内と実際との乖離具合を減らすのが脳の原理原則」と一貫して主張しているわけで、この大原則からすれば「事前に立てた予測との差は少ない方がいいに決まっている」コトに思い至りました。

この視点から「運動」をみると・・・
例えば「ドアを開ける必要がある」状況において、ドアを開けるときの感覚予測が脳内には生じます。
とっての位置やその外観から必要な力が入ったとき筋紡錘から送られてくる信号を予測します。
これに沿って適切と思われるプリロード(事前負荷)がかけられドアを開ける準備にはいります。
これを運動野に送り運動が開始されます。
予測と合致する割合が高い運動ほど修正が少なくて済み、運動自体もスムースに行われます。
もちろん脳内の自由エネルギーの増加度合いも最小限ですむでしょう。
しかしもし予測と大幅にずれると、例えば見た目よりもすごく重いドアで動きが極めてシブかったりした場合は、予測によるプリロードが十分かからないので不用意に開けようとすれば最悪筋や腱の損傷を招くこともあるでしょう。

このように脳は「こんな運動をしたら返ってくる感覚信号はこんな感じで(予測)、そうなってくれれば自分の仕事も少なくて済むんだけど」なんてことをぬかしているわけです。
これが「脳内では知覚と運動の区別はない」と言うことの意味みたいです。

本来脳の大切な仕事の一つは「生存確率の向上のための計算」です。
あらゆる状況下において少しでも死から遠ざかろうとする反応を、複雑なパターン認識を通して生成される予測を持ってバックアップする。
これこそが脳の一番大切な方向性(のはず)なのです。
が、実際にやっているのは「脳の、脳による脳の満足のための脳内政治」であって、一応生存確率云々は原理原則としては働いているもののともすればそんなことはすぐに脇に追いやられてしまう。
そしてその影響力は絶大で、事実上独裁と言っても過言ではない支配力。
今まで散々「我が儘臓器」となじってきたわたしですが、その主張を遙かに上回る外道ぶりがこのたび判明したわけです。

さらにいくつか興味深いことがこの本には書いてあります

感情は、内臓の状態を知らせる自律神経反応を脳が理解することと、その反応が生じた原因の推定という2つの要因によって決定される。(P17より抜粋)

何で読んだか忘れましたが、感情とは「その都度生成されるもの」という話を思い出しました。
深遠なものでも神秘的でもないが、複雑怪奇なメカニズムによって生成される生理的な反応である。
この辺りはこの本での主張も共通しているようです。
また自己主体感、自己所有感など「自分が今行っている考えていることは自分が主体的に行っているに他ならない」という感覚も脳の働きそのものであると書いてある(ような気がします)。

感情とはそもそも何なのか
この本の題名ですが、やはりというか生理的な脳内反応であるという結論にわたしも強く賛同しています。

また原則そこには「自己保存」という最優先の原理が働いているが、緊急時を除けば実際には「脳内環境---自由エネルギーの減少---が最も大切」という脳内ルールに突き動かされているみたいです。
つくづくとんでもない臓器ですが、今回このことがより明確になったのは良かったと思っています。

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