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自己肯定感

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自己肯定

先日こんな記事をネットで見ました。

まあ家人に任せきりだった私が子育て云々を語るのもおこがましいとは思いますが、この中で「自己肯定感」は叱責されることに伴い減少する、と言う下りがあります。
これ自体はそう間違いは無いと私も思います。
私の中で疑問なのはこの自己肯定感というのが、現実問題としてどのくらい必要なのか、と言うことです。

これは子育てあるいは心理的理論によるものというよりは、50年近く生きてきて、そのうち半分くらいを治良屋として過ごしてきた人間の実感なのですが、自分を否定したことが無い人間はかなり問題があるのではないかと考えています。

たいていの場合、無垢な状態では自分を否定も肯定もしません。
そのうち様々な洗礼を受けて、外部あるいは内部の修正やすりあわせをし始めます。
自分を心底信じられる、つまり大切な部分がきちんとあって、それを訳もわからず否定されるのでなければ、このときにおきる「部分的な自己否定」は自身の内部を深く追求するための、大事なファーストステップとなり得ます。

逆にこのようなときに「自分は今の価値観を捨てたら何も信じられない」という、硬直した心理状態だと、この部分的な修正に対して強く反発し、猛烈に攻撃的になるか、強い萎縮状態を招きます。
上記の記事であるように「叱られたことがない」人間は、このパターンであるケースが少なくありません。
つまり周囲に対して自分の欲求をストレートに表現することが当たり前で、その結果について否定的なリアクションがかえってくることなどは想像できないのです。

社会に出てからこのような状態になる人も少なくありません。
自分の責任において、自分のしたことの帰結をみとる必要がある場合、その結果如何によってはきわめて厳しい立場に立たされることも珍しくありません。
しかし、顔を向けていないエリア、たとえば時にそれは外部のクライアントやカスタマーだったり、逆に仕事仲間や家族だったりしますが、に対してはどうしても「きちんと」対応できないことも珍しくありません。
そういうエリアでは、えてして私たちは「暴君」になりやすいのです。
それはそこでは私たちを叱ってくれる人がいないからです。

怒られるのは気分の良くないことですが、叱責はどんな年齢になっても必要なのではないかと私は感じています。
自己肯定感というのは「好きに生きていく」と容易に結びつきますが、なすべき事をなしながら生きていこうと覚悟を決めたなら、否定や修正を含んだ諌言というのは必ず必要になる。
私はそう考えます。

表面的な、温い肯定感は、温めの満足をもたらします。
それに飽きたとき、人は次のステップを求めます。
それは一度自分を壊すことから始まるのではないでしょうか。

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