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科学リテラシー

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科学リテラシーについて(長文です)

本日の私的収集歴外部記事リンクが科学がらみのものでありましたので、今日は「科学リテラシー」と言うことについて考えてみます。

リテラシーというのは本来読み書き能力、識字率(literacy rate)などを意味する英語であります。
最近では特定の分野に関する教養、あるいは活用能力という意味合いで使われることが多いようです。
つまり「科学リテラシー」という言葉は「科学を理解し、正しく活用する力」と言うことになります。
しかし私達は専門家でもない限り、科学のすべてを正しく理解することは事実上できないと思われます。
否、専門家であっても自分の研究分野以外はまず表層的な知識のみしか理解できないと言っても間違いではないでしょう。

しかしそもそも科学を正しく理解する必要というのはあるのでしょうか。

物事を自分のために正しく利用するためには、成り立ちやそこに至る筋道というものを把握しておく必要があります。
これはもちろんすべてをそうすべきだ、という意味ではありません。
しかしこれから“それ”に接しようとするとき、全く盲目的に信じたり否定したりすることがいかに非効率的かは今更説明する必要はないと思います。
科学というのは本来そのように「この現象、事象の成り立ちはどうなっているのだろう?」「それを無理なく説明するためにはどういうことを知るべきなのか?」という疑問を解決するために生まれた、といっても過言ではありません。
科学が生まれる以前の時代は、これを一つ一つ体に教え込むことで生活に役立てていたわけですが、それが他と矛盾なく説明できることを目指して発達させたものを「論理」と言います。
理(ことわり)を論ずる、と書きます。
理とはものの成り立ちのことですが、此を論ずるに当たりそれまでの絶対真理である神学が十分に機能しなくなるという事態が発生しました。
神学とは「まず神ありき」を土台においているので、此を議論することはかないません。
しかし科学は「神は本当にいるのか?」をも追求するので、当然折り合いはよくありません。
つまりその根源に「こうあるべきはずだ」というドグマ(中心教義)を置かず、タブーなしでどんどん疑問を呈し、それがどの角度からみても矛盾を発見できないというところまで否定を繰り返してみます。
その厳しいふるいの末に残ったものだけが「理論」としての存在を認められるわけです。

当時の教会中心の社会で此は非常に(指導者層にとって)都合の悪いものであったであろう事は想像に難くありません。

話がずれましたが、科学とは要するに物事を一つ一つ確かめながら考えるということが必要な学問体系であると言うことです。
そして科学リテラシーとは「物事を一つ一つ考えるという(当たり前の)ステップを身にしみさせること」の結果得られる能力です。

似非科学(非科学ではありませんよ)の場合、一つ一つ考えることを放棄させるマジックがそこかしこにちりばめられています。
たいていは科学用語のあとに続く論理の飛躍、という形で見て取ることができます。
誰でも知っている用語を挿入しながら、しかしその説明が論理的つながりを持たないものは、十分に眉につばして聞く必要があります。

見分け方としては

1 あまりに(一般的視点なのに)ぴたりと説明が完結しているもの
科学法則などは、たとえば有名なE=MC^2 のように美しく表せるものもありますが、特に人体に関してのことはその真相はたいていが曖昧な表現でしか説明できないものが圧倒的に多いのです。
「あなたの体は水が大半だから、きれいな水をとら“なければ”決して健康になれない」というように、ふらっと「そうかも・・・」と思えてしまうような断言をするものはおかしいと考えるべきです。

2 やたらと権威を利用して科学性を強調する
もうなにをか況んや、です。

3 派手な宣伝をしたがる
これも侮れない方法で、知らなければ「そういうものか」と思いがちになるものです。

これらに唯々諾々と従い、疑問を排除して生きていくのも幸せの一つの形であるとは思います。
それは間違いありません。

しかしたいていの人間はそうなれないのです。
どう信じようとしても必ず疑問というものが生じるのです。
いったん生じた疑問はなかなか消えないのです。
其れもそのはず、現実との矛盾は必ず目につくからです。

此を解決するものが物事をステップバイステップで考え、実践してゆく習慣と言うことです。
その都度出てくる理論と現実の乖離を、一つ一つ現実側にすりあわせるようにして考えを磨いてゆく。
そこから得られた知見をまた自分の主張である理論にフィードバックさせて、自分の中で確固たるものを形作る。
此を教養と言います。
リテラシーを教養とも訳しますが、であるならば科学リテラシーは自分を確立するための必須事項であると言うことになります。

教育は教養を涵養するための基礎訓練であり、あらゆる思考のベースとなり得るものであるべきです。

科学リテラシーとは自分を「俺は間違っていない」と言える生き方をするためのツールである。
私はそう考えます。

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