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提供すべきこと

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提供すべきもの   2011/09/06

私たちパラメディカルも業務として手技を行っている以上、その商品の品質如何によって経営状態が左右されるという点は、他の仕事と何ら変わることがありません。
ゆえに提供すべきことについては、常時アップデートを旨としております。
そこで以前にも、と言うかこのサイトではこの手の話が頻繁に出るのですが、治良師としてするべきことはなにか、再考察してみたいと思います。

少し前に書いたことですが、私たちは少なくとも直接クライアントを”なおしている”と言うわけではなさそうです。
何かよくわからない、かろうじてその存在を認めることはできるものの、しかし自分の(普段の雑多な)意志では誘導できそうにもないものによって「治癒」という現象が引き起こされている。
そのようにも書きました。

今もその考えには基本的に変わりはありません。

そしてその「よくわからないもの」を体に作用させる最も手っ取り早い方法は、あまりごちゃごちゃ考えないで心身を“任せてしまう”ことである。
これに対しても未だ違う意見を持ち得ないでおります。

ただ我々治良師も基本的にはただの人間、オッサンだったりしますので、やはり何かイメージを持たないことにはコンスタントに結果を引き出すことが難しいと感じています。
仙人のようにその時々の変化をありのまま受け入れられればベストなのでしょうが、修行不足のためそうはいかないというのが現実です。

それもあって時々こうして書くことによってそのイメージを確認したりしています。
お読みになってくださっている方々には本当に感謝しております。

話を戻します。
古来からこのような(現代人の言う)超現実的な方法を現実に反映させようとするとき、決まって行ってきたことがあります。
それは【祈り】というやつです。
ただこれは「自分勝手な願望を自分以外にぶつける」ことではもちろん無いだろうと思っています。
何かもっと違う心や体の使い方があるはずです。

正しい祈り。
なんだかよくわからないので、まず「ダメ」と思われるアプローチについて考えて見ます。

・当然ながら願望が成就するようにして!の類い。
自身を省みても、周囲あるいは歴史を観察してみても、いわゆる「欲望」はなかなか“私たちの元”とはリンクしにくいように思えます。
むしろリンクしにくいことを私たちは欲する傾向がある、と言ってもいいかもしれません。

・いわゆる“正しいあるいは善なる願い”というやつも・・・・。
200%間違いなく、自分の内側からわき出たものであればそれもアリかもしれませんが、たいていは一過性の興奮状態で終わることが多いですよね、こういうのは。
ほとんどが教条的な思考が生み出すので、いずれその矛盾や不自然さにやる気をそがれることがほとんどなのでしょう。

・自分らしくと言うケース
これもいまいちぱっとしないで終わることが少なくありません。
たいていの場合、「楽に生きたい」というのを言い換えているだけなので、【するべきこと】とだんだんと乖離していくわけです。
やりたいこととするべきことがまるで一緒で、しかもそれが永続するというのは、本当にごくまれだと思われます。
超自然的疑似人格や、あるいは○○の意志といった類いを私は信じませんが、仮にそのようなものが私たちの人生に意味を与えていて、しかもそれを【するべきこと】と呼ぶなら、その課程には生成りではできないことが山積みであると予想します。
良い素材もすばらしいですが、それをつかってできたすばらしい料理のほうがたいていはおいしいからです。

とまあつらつら考えて見るに、「基本的に私たちは易きに流れ、面倒なことはとっとと解決してしまいたい」と考える生き物のようです。
もちろんこれは良い悪いを論じるものではなく、私たちの基本的な性質の一側面(しかも比重としては大きい)だと言うことです。

ではそれを踏まえた上で、「私達の体や思考を統合する”何か”にコンタクト可能な祈り」とはどのようなものだと考えられるでしょうか。

これはあくまで私見であり、しかも現時点でのものであるとお断りしておきますが「自分の内側と接すること」であろうと考えます。
自分の内側にただ虚心に(とはいうもののこれが最も大変ですが)触れるとき、私はなぜか自分のそのときするべきことがわかる。
そんな気がいつもします。

これはきれい事ではなく、結果を出すためにどうあるべきか考えてきた結果(もしかしたら課程)で、欲望が渦巻いているとき(なおして、尊敬されて、経済的にも大成功!という私の大好きな妄想全開時)はこれがうまく機能しません。
とはいえ、これは私の基本属性の一つみたいなものなので、消去しようと考えすぎてもそちらにエネルギーを取られてしまいます。
なので「そこを含めて触れてみる」という姿勢が必要になってきます。

そのとき「今はこうするのがベスト」と思える方向性が浮かび上がってきます。
これが【祈り】の本質をなしているのではなかろうかと、私は考えます。
それは昨日と、イエついさっきと違うことも多いですが、体が勝手になすべき事をなしてくれる、ようなのです。
「ようなのです」というのは、まだ200%の確信を得てないからですが、その半分くらいの確率での揺るぎない気持ちはあります。

幸せになりたい。
これがない人はそうはいないと思いますが、その形は様々です。
治良によって健康を手に入れたいという気持ちもその一つでしょう。
そのために治良師としてするべきこと、つまり私が提供すべきものというのは、案外単純なものなのかなあ、と最近はよく考えます。

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