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意識とはなにか

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意識とはなにか

またあきもせずこんなことばっかり考えているわけですが、わたしが(今のところ)知りたいのはただひとつ。
これを主体と見なすべきかどうかです。

意識あっての生命体なのか。
生命現象に付随した単なる生理現象なのか。

今一度「意識」という現象について考察してみます。

クオリアという言葉があります。
意識的体験という意味ですが、今まさに「みている」「感じている」という、私たちが日常的に経験していることでもあります。
つまり「今経験している感覚を意識できる」がクオリアであるということになります。
これがややこしいのは「では今感じているという経験をしているのはだれだ?」という問題が絡んでくるからです。

意識できるという「主観的体験」は、想起された記憶にフォーカスしている状態に他ならない。
わたしはそのように考えます。
「瞬間瞬間の認知/認識の集合とそれが作るイメージの連鎖」こそが「今感じている、ほかならぬ自分」の正体である。
感覚を認識し、そこから拡がるイメージの連鎖を認識し、それら全部にまつわる反応のシミュレーションが「今ここで感じている生き生きとした感覚」を生み出し、まるでそれを感じているなにか(自分)があるかのような感覚をもたらす。
それは特定のモジュール同士が作るサーキットの興奮により“偏った”情報認識がなされる状態ともいえる。
意識を「自分」と見なしやすいのはこのシミュレーションが大きく寄与しているはずです。
原則として面倒くさがり(エネルギーやリソースをできるだけ使いたがらない)の脳の都合によるものですが、どの時点かでデータや情報をカット(成形)して、従来からある記憶(脳内世界)との整合性をとろうとした結果とも言えます。

行動に先立たず、意識できる前に脳の当該領域に興奮が起き、かつその興奮がある程度長時間でなければ意識に上らない。
またなにも考えていないようでも記憶のつながりは起きているのでそれが必要に応じて、或いは何らかの理由(ハードソフト両面が考えられる)によって興奮が長時間起きると意識が生じる。
調子の悪いときに同じ事をグルグル考え続ける(意識がその記憶グループに集中している)というのもそのひとつでしょう。

この意識された記憶、言い換えるならより使う機会の多いサーキットは、次になにか処理を必要とする反応が入力されたときも対応のベースとなります。
今想起している記憶群にリンクさせるように事実(記録)を加工し、ベースサーキットにフィットするような”記憶”に改変してゆきます。

ここでひとつ得意の(妄想交じりではありますが)思考実験を。

お題1:機械に意識を持たせる、つまり「感じている」と自主的に出力させることは可能なのか。

ここでは「今感じている」と“感じる”ものを意識と定義し、これを機械の中で実現できれば「機械に意識がある」とすることが出来る、とします。

そもそも「感じる」とはどんな状態を指しているのか。
難しいこと抜きに考えるならば「今知覚している何かにまつわる記憶全体をシミュレートしている状態」となります。
このシミュレーションは「感じたとき起きた知覚/運動制御領域の興奮」が(ほぼ)もれなくセットになっていることが分かってきています(だからシミュレーションだとも言えます)。
体を実際に動かしていなくても、経験時の反応をまるごと再現している。
そして思い出す=当時の内部状況をありありと追体験しているのであり、そのとき脳内で走っている記憶に整合させる反応こそが「感じる」だと考えられます。
この時の主体は脳の性質が呼び起こした記憶全体と言うことになります。
リアルなレコードを改変し生きる上で有利な状況を作る「記憶」とするその原動力は「生きろ(或いは死から遠ざかれ)」という謎の基本命令セットです。
その結果生じた感覚とその評価によって獲得した記憶。
そしてそれがもたらす「(あの時の感覚を実感しながら)感じるという反応」は、死から遠ざかるという基本欲求(本能)を元から持ち得ない、そして相互に影響し合う出力系(体)を持たない通常のコンピュータなどの機械には生まれないと言うことになります。

ではこれをさらに一歩進めて考えてみます。

お題2:感覚器自体は正常だが脳の疾患損傷により、通常であれば脳内に保持されるはずの長期短期の記憶を失い、新しく記憶できない状態の人は物事を意識できる(感じられる)のか。
お題1の結論に従えば「この稿で定義した“感じること”は出来ない」となりそうです(困った・・・)。

反論(ノリツッコミ):記憶それ自体は実は脳だけで行うものではありません。

参考:単細胞生物も「考えてから行動」する:ラッパムシの実験から見えた意思決定の分子アルゴリズム

ラッパムシの場合、脳どころか原始的な神経系すらありません。
しかし学習しているのは事実のようです。

ストレートには比較できませんが記憶を保持できず、新たな記憶も作れないヒトの場合

・学習はしているものの、それを明確に記憶、或いは意識することは出来ない
・今まさに入力されている知覚に対し参照する記憶がない、或いは引き出せないため、それらと関連付けて「意識する」ことは不可能
・ただし瞬間瞬間の認知/認識は失われていない(これが失われると事実上ほとんどの精神活動が失われる)はずで、意識に上らないだけで学習した結果と認識の整合性をとるという方向性は残っている

と考えられます。

つまりごく短い、そして記憶参照はないながらも感じるという機能自体は残っていると推測されます。
しかしおそらくこういった状態の人たちの見えている風景、或いは感じている世界というの私たちとは異なっているでしょう。
その瞬間瞬間にしか「今感じている」という感覚しか生まれないのですから。

この稿の結論:やはり意識は生理現象であり、言うなれば必要な判断を瞬時(0.5秒以下)で下せないときに生じる「ノイズ」であるとも言える。
主体とするには無理があると考えられる。

参考:脳の特定部分に物理的に電気信号を送ると右手が上がります。ならば「右手を上げる電気信号」を発生させる部位もあるはずです。その部位を起動させるべく電気信号を生むのは「魂」ですか?
特に
Masahiro Sekiguchi, 医師 (2009〜現在)氏の回答は個人的には興味深いものでした。

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