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意味があるとか無いとか

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意味があるとか無いとか

意味が無いからやらない
意味がわからないから云々

世代や時代を問わず出てくるそしてよく聞くセリフです。
でもちょっと待って下さい、この「意味」ってどういうことなのでしょうか。

認識という言葉があります。
前稿成長っているの?で「認識とは」みたいなことを書きましたが実はこの言葉と関わってくるのがここでいう「意味」になってきます。

認識は実感を伴うと書きました。
ではこの実感ってなんでしょ?
これは生理的な感覚を伴う学習のことを言います。
大抵は肉体的な感覚とセットになっていますが、それ以前に学習した、つまり既に「記録から記憶になったイメージ」と結びつけば、やはり様々な身体感覚とのリンクが成立し、普段使いのイメージ群と混じり合い実感として定着するようになります。

リアリティという言葉がありますが、まさにこれは「自分の知っている何かと結びつき、ただのデータではなく自分が扱える情報として体感を伴ってイメージすることが可能なもの」のことを指しています。
実感とはつまりはそういうものであると言えるでしょう。
何かをみたり感じたりして脳内データベースとのリンクが作られ、さらにそれを記憶に変容させて取り込む。
これを「認識」と言います。

さてここで「意味」です。
上記のように「自分が扱える情報」だけが私たちの脳内世界で価値を持っています。
それがリアルワールドや自分以外がどのように感じるかとは無関係に、自分の内部につながるものだけを私たちは扱える。
感覚器を経由した信号でしかないデータは内部とつながって初めて自分にとって、というか自分だけの生きる上での価値を持つことになります。
この価値を「(自分に対する)意味」と言います。
認識=自分の中の何かと結びつく=意味を持つと言うことなのです。
少なくとも脳内世界の話ではそうなります。

私たちは自分にとって意味があるもので無ければ思考や行動につながるような情報に変換できません。
危険回避の反射を除けば意味の見えない刺激はただぼんやりとした感覚にしか思えないように出来ています。
なので「意味がわからないことは無視」もいいのですが・・・・

ここですこし長いたとえ話をしてみます。
私たちが何かを、特に全然経験したことがないものを習得しようとしたとき、普通は練習や訓練をします。
どんな天才でも全く未経験のことをいきなりマスタークラスでこなすのは事実上無理でしょう。
それを出来ると言い張る人は単に変なだけです。

本来この訓練というのは自分の思いこみを壊すところからはじめます。
例えばですが、柔道しかしたことのない人が打撃系の格闘技をしようと思えば体の使い方はもちろん、様々な違いを経験するはずです。
上に行けば行くほどどんな柔道の強豪もこのギャップを埋める必要が出てきます。
柔道の記憶は一端捨てて、改めて打撃への対応を体に馴染ませる必要があるというわけです。
違いをかたくなに認めず柔道のつもりで打撃に向かっていけば打撃の上級者にはいいようにあしらわれるでしょう。
そこをまず頭で理解して虚心坦懐に稽古をする。
はじめの一歩というわけです。
この時、もちろん指導者の言っていることの意味などわかるはずもありません。
だって自分の中に全く実感がないことをしているわけですから。

このように「完全に初体験であることは常に自分の中で意味を生じさせない」ことを忘れるべきではありません。
だからといって初体験のものすべてが自分にとって不必要であるというのはおかしな話であるとすぐにわかることです。

わからんことだらけでしかも前の記憶や染みついたクセが邪魔をする。
そこをただ指導者の言うとおりに必要な動きを繰り返し、頭よりも体に覚え込ませていく。
その課程で自分の中にある従来のイメージは一端壊れ、積み上げてきたものすら利用しづらくなる時期が来ます。
何かを新たに習得しようとすればこの段階を避けて通ることは出来ません。

思いこみという「ある程度のところで情報を切り捨てて安定させたイメージ群」がなければ私たちの脳は日常生活にも支障を来すほど思考がまわらなくなる恐れが非常に高い。
しかしながらこれが固定的になると本来的に必要な事柄を見抜けなくなったり拒否しがちになります。
私たちが感じる「意味」は脳のそんな特性が生じさせているものなのです。
コンピュータでは決して生じ得ない、情報による判断混乱の元がこれなのです。

人生において訓練をして何か新しいことを学び続けねばならない、とは思いません。
思いませんが、

「客観的にみて必要と考えられるものを習得理解しようと思えば、意味のあるなしを考えることには意味が無い」

とは言えそうです。

特に最近は早急に結果を出すことを求められる。
或いは即座に結果としての情報を知りたがり、それが自分に意味のある形に出来るように説明を求める傾向が強まっています。
これらが時代の流れの中で必然的に出てきた流儀なのは、いくら昭和な私でも理解できます。
ただ人というもの、或いは脳という臓器の基本的な性質はそうそう変わるものではありません。
新しい時代になって今まで以上に変化への対応が求められるようになっています。
これらを踏まえて時々トレーニングのつもりで意味が感じられない訓練をしてみる。
極めて現実的な考え方だと思います。

何かを憶えるために我慢しなさい、なんて話ではありません。
成長することにこそ意味があるなんて話とは全然違います。
努力こそが尊いとかいうことからは最も遠いお話なのです。

「意味が無いからやりたくない」

この言葉があなた自身に与える影響を今一度考えて欲しい。
Oさん、私があなたに思うのはそういうことなのです。

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