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宗教概論

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宗教概論

これから書くことはかなり長文で、しかも知り合いに向けた説明という色合いが濃いものとなっています。

最近宗教あるいは信仰の在り方が改めて問われている。
そんなふうに感じています。
土着的な信仰を除けば宗教は「生きるのが苦しい」「死ぬのが怖い」「死んだらどうなるのか不安だ」などという、言わば私たちが抱え込みやすい悩みや苦しみに対応するように始まった・・・はずなのです。
しかし現状日本においては信仰をしているだけでも敬遠されがちになるなど、ずいぶんと危険なこととして認識されているように思えます。
感情論とも相まって信仰・宗教に対する議論はまさにカオスの様相を呈しています。
政治を含め社会的な問題としての解説は他の方に譲ります。
あの世も神仏も信じていない無神論者にして完全な部外者である私が「宗教や信仰って何?」という疑問に対して少し思うところを書いてみます。

始めに。
私は別に「宗教をお金儲けの道具にするな!」なんてコトは思っていません。
疲れた頭を抱えた人たちをワナにはめて騙すのはもちろんアウトでしょう。
しかし教団を運営している人たちだった霞を食べて生きているわけではありません。
口を糊するにしろ団体の維持にしろお金が必要なのは言うまでもありません。
一方で人間という生き物にとって「救い」は他に代えがたい価値ある商品なのですから、これを売りたいと思う人がいることや悩みを抱えた人が積極的にお金を出したがるという心情や行動は十分に理解できます。
それを考えると宗教は本質的には大もうけが可能な業種といえるかも知れません。
しかしだからこそ騙せる立場にあるからこそ騙さないという矜持は重要であり、修行中に言われた“治療を仕事にしたかったら信じてきてくれている患者さんを騙すな”という先達の言葉がリアリティをもってわたしにせまってきます。
そして教団内部の人間が聖なる人である必要も無いとも思っています。
只の人間が運営しているのですからそんなものになれるわけもなく、そうである必然性もありません。
信者さんが差し出すあれこれに見合ったサービスを提供できるかどうかが大切で、そのために神聖さよりも誠実さが重要な要件になると考えます。

ではまず「教祖」について。
本来このポジションにいる方は「サービス業」に属し、お客様たる信者のみなさんに喜んでいただくのが本分であろうと私は考えます。
悩みを解決したい方にはその解決策や方法論を提示し、悩んでいたい方(そういう人も多いのです)には禅問答ばりの質問を投げかける。
言わばそれぞれに合った心の安定をもたらす処方箋を出すのが仕事であり、そのために必要ならば神でも仏でもあの世さえも引っ張り出して(ここがカウンセリングとは違う)元気づけたり一緒に悩んだりする。
何なら笑いをとるくらいのサービス精神でやれることを全部やる。
自ら現場に出て仕事をする自営業者であり、場合によっては清濁併せのまなければならないタフな立ち位置にある経営者でもあります。
心の処方箋を出すに当たり対価として料金(献金やお布施ですね)を受け取るのは当然であり、むしろこれを曖昧にするのはどうかと私なんかは思ってしまいます。

誠実な教祖だったらさらに以下のようなことにも心を砕くはずです。
基本的にお金を含め対価をいただく、つまり商いをするなら常に公正な態度や取引を心がけねばならない。
恐怖で縛るなどはもってのほかで、いつでも離脱できて必要になればまた利用してもらえるようなシステムはもちろんのこと、唯一の商品である心の処方箋の作り方は常にブラッシュアップ、そしてアップデートして最良最新の状態にしておく必要がある。
目標はあくまで「自律性と自立性の回復」であるが、一定割合で残留(依存)もでるだろうからそれは致し方ないと割り切る。・・・・・などなど。

宗教の御利益

ではそんな教祖が運営する宗教の「御利益」って何でしょうか。
言ってしまえば御利益とは「当人にとって価値のある救い」ですが、見方を変えて脳側からみてみると「心(脳)の負荷を減らす」であり、その方法として思考や意味づけ(判断)を一時的に停止させるのだろうと考えます。
その結果バラバラになっていた脳内反応(心)が統合性を取り戻し外部との整合性を得やすくなるでしょう。
周囲の現実との整合性がとれないとき、私たちの脳は前提を変えるにしても取得した情報に修正をかけるにしてもかなりストレスフルな状況に追い込まれます。
宗教に限らず信仰を持つ人は(その是非は置いておいて)このような状況下でも現実の解釈を変えることで統合性を維持しやすくなります。
これは宗教の定義でもあり本質と呼んでも差し支えありません。

私たちは常に内外の状況を自動的に探る(判断する)ようになっています。
生きる上で何が必要で何が邪魔なのかを自分の認識をベースに判定しながら生きているわけですが・・・・
そもそも私たちの苦悩の原因のひとつが判断のベースになっている「限定された認識」である以上、その先にある判断が完璧になるはずがありません。
なんとか修正しつつ現実との整合性をとろうとしていますが、体調や状況がごちゃごちゃしてくると内外の状況分析精度はだだ下がりになります。

後述しますがこの「生きる上であまり好ましくない脳内状況」は加速しやすく、どんどんまずい方向へ突進するようになり本人にすら止めることが出来なくなることはよくあることなのです。
このように人間の脳は結構簡単に判断や判断基準を見失いがちで、これが高じると考えることも行動することも出来なくなることは意外に高い頻度や確率で生じるものと考えます。

まともに説教しただけでは止められないこの脳内現象を問答無用でストップさせるため、教祖や教団側は疲れた頭には通用しない正論ではなく、正誤を判断できないファンタジーやら未来予想にのせて話をする。
意味がわからずそのまま聞く人もいるでしょう。
あるいは突拍子もないが故に混乱している頭の中にある何かと結びつくこともあります。
いずれにしても頭の中で同じ考えばかりを繰り返している状況から少しだけ注意をそらす効果があります。
これが使いすぎた脳内サーキットのによる疲労を回復させるきっかけとなり得る。
宗教における最も大切な部分であると私は考えています。

あるいは心のよりどころとしての場所や人を提供する。
心というイメージ群が不安定になるとひとは思考も行動も極めて怪しくなっていきます。
しかも簡単には回復しないタイプは上のやり方では十分ではないこともあるでしょう。
そんな人たちのための杖や止まり木になる。
宗教や教祖の大切な仕事ですが、頼られる立ち位置で「ちょっと相手が依存気味だけど今は仕方ないな」と思いながらそれを飲み込んでただただ相手のために「在る」。
これも立派な教祖としての在り方で、自分の力の及ばないことや相手の不可抗力的な状況を黙って受け止める器がないとなれないのが教祖なのです。
葬式の時だけなどと揶揄されることの多い現代仏教ですが、混乱している遺族の気持ちを和らげる立派な在り方であり、セレモニーを司る方々は十分に宗教家としての仕事を果たしていると思われます。
ポイントは「必要な時に適切な救いやよりどころを提供できるかどうか」で、教祖=サービス業とわたしが言うのはこのことを指しています。

そしてそれは真面目に考えるならごく普通の対等な取引が可能な領域でもあり、特段怪しいものになる必然性も無く非合法や非倫理的な方向性を必ずしも必要とはしません。
ただし混沌そのものである「人の心=イメージの動き」が扱い対象なので、シンプルだけどイージーではないわけです。
混沌そのもの、と書きましたが正確には「脳はその場その場で引き出されたイメージ情報を意味づけしたり正当化するので法則性があるようで無いと思った方がわかりやすい」のが脳が作る心というやっかいな代物です。
こちらが勝手に想像するよりも「テキトー」な、行き当たりばったりがモットーの臓器が作ったものと考えて良いでしょう。

この厄介者が暴走した結果生じたガチガチのイメージを解きほぐす(逆にさらに頑なにするリスクもあります)のも信仰や宗教がもたらす効果だろうと考えます。
そのためには「意味づけしようにも出来ない架空の何か」に語らせた方が疲れた頭には効くコトを理解し実行する。
神や仏が先にありきではなく、あれこれしようと思ったらそれらが必要だった。
現代宗教を本質的にそして好意的に解釈すればそんなふうになるだろうと思います。

信仰することのリスク、デメリット

一方で当然このような考え方(判断を何かに預ける)には問題も生じやすくなります。
疲労した頭で飛びついた「救い=教え」は、そのときの心理的肉体的なインパクトから「絶対」となり当人の中で疑ってはいけない真理として定着しやすくなります。
それが現実とどれほどかけ離れていようと当の本人には関係がありません。
混乱の極みにあるときに「救い」と共にしみこんだイメージは崩れかけた自己をかろうじてつなぎ止める働きをするからです。
教義に踏み込んだ話の中で時として信者さんが不愉快になるのはそのせいで、当たり前にある論理的な矛盾(どんな主張も必ず矛盾をはらんでいます)を指摘されれば絶対性が揺らぎ自己イメージが不安定になるのです。

そして長期にわたる判断停止状態はもちろん好ましいことばかりでは無く、何をみても何を聞いても全て中心教義に結びつけるというリスクも持ち合わせています。
結果として状況に即した(個体保護のための)判断というものが出来なくなるコトも珍しくありません。
もちろんこの状態を継続したいもしくはせざるを得ない人だっています。
この稿がそれを責めるものでは無いことは言うまでもありません。

また「不安定なときに起きた血中アドレナリン値の上昇」はいわゆる”吊り橋効果”として当の本人はもちろん、多くは教祖側の思考にも強い影響をもたらすことが考えられます。
そりゃ喜んで大金をくれる人が増えれば、いや増えなくてもそういう人が一人でもいれば普通の人間は当たり前に勘違いを起こしてしまうことは十分にあり得ると思われます。
お金を払って(貢いで)くれた上に自分を無条件に肯定するどころか絶対視してくれる。
これは気持ちいいと思います。
ドーパミンでまくりでしょう(笑)

これらが加速し教団の主張と社会のコンセンサスとの乖離が大きくなり実際の行動にも反社会性反倫理性が出てくるようになると、社会全体から「安定を脅かす排除対象」と認定されてしまうことがあります。
快楽にはとことん弱く、強い刺激によって成立した回路が頻繁に再利用される私たちの脳にとって、これらを同時に高いレベルで達成させる宗教はある意味最強の「ぶっ飛びを誘導するモノ」となり得ます。
周辺とのゴタゴタなどお構いなしに離れがたくなる人が続出するのもうなずけるというモノです。

元来宗教の定義のひとつである「信じる」はその対象や対象の主張に“賭ける”コトであり、対象設定が神仏であれば宗教となり、2人の間で好き嫌いが絡めば恋愛となります。
また賭けるという行為自体が極めて強いドーパミン分泌誘導因子になり得ます。
それゆえに対象の在り方としての妥当性は多くのケースでは思い入れ度合いには影響しません。
それは私たちが情報の切り捨てや加工によって始めて認識が可能になるという性質の強調された面でもあり、いろんなコトに疲れていればなおさら起きやすい現象なのです。

ちなみにですがドーパミンはその作動性神経の多くが報酬系と呼ばれる系統のものであり、扱っている情報を「浮き彫り」にする効果があります。
また情報内のノイズを結果的に除去することから他の情報とのリンケージが強化される効果ももたらします。
リアリティを持った情報として3Dのように目の前に現れ、かつ脳内報酬反応と結びつきやすい。
ドーパミンが絡むと私たちは暴走突進しやすくなるというわけです。

宗教だけでなく疑似科学、自己啓発系の発想などは、疲れているときに支配的になりやすい【現実とすりあわせられない世界観=こうあってほしいという願望が生み出すイメージ】を追認補強してくれることが多いので、混乱しているときはことさら傾倒しやすくなります。
趣味と同様それ自体は個人的に言えば「何ら問題なし」と考えますが教団外においては社会性という「集団内での立ち位置の確保」は難しくなるでしょう。

宗教とどのように接するべきか

かように強烈に人の基本生理に訴えかける宗教に対し、私たちはどう向かい合うべきなのでしょうか。

混乱の末に判断の基準が崩壊する。
もしくは解決とはかけ離れた判断しか出来ず、さらにはそれ以外の思考を選択できない。
これが起きると私たちは考えることも、果ては動くことさえ出来なくなります(これも脳の性質ゆえです)。
そんなときに「今は判断を神や仏に委ねて黙って祈りなさい」ととりあえずの方向性を“決めてくれる”のは非常にありがたいのです。
少なくとも脳側からみるとそうなります。

信仰や宗教の「価値」とはこれであり、混迷の中でオロオロさえ出来ないときに寄りかかったり掴ませてもらうモノなのです、本来は。
そう考えると「宗教とは一概に否定も肯定もすべきではない」という答えが必然的に出てきます。

なのでわたし個人の提案としては
必要なときには対価、これはお金とは限りませんが、を差し出し頼ったり利用させてもらう。
十分な健全さを取り戻し必要がなくなればお礼を言って“卒業”する。
場合によっては残留するものあり。
これが現代社会における宗教との相対し方だとわたしは考えます。

もうちょっと砕けて言うなら「心の病院」だと思えば分かりやすいかも知れません。
心(脳)がにっちもさっちもいかなくなったらまず休養が先決ですが、黙って寝ていても頭の中の混乱は増すばかりな時に「まずはこれ」とやることを提示して混乱から注意をそらさせる。
そのすきに色々修復をすすめて自律性と自立性を取り戻させる。
宗教団体はそんな専門家の集まりだと考えると良いかも知れません。

病気で動けなくなれば病院に行って専門家集団にあれこれしてもらったり、場合によっては入院させてもらう。
そして元気になれば薬も減るし退院だってする。
基本はこれと同じ。
もちろん「単に病院が好き」という人がいるように、信仰自体を手段ではなく目的とするのもありだと思いますが。

ただし医療にも専門分野があるように、今の自分にとってどんな教え=救いが必要かは自分で判断する必要があります。
しかし判断力が低下しているときにこれを的確に見極めるのは非常に難しい。
ここが“宗教選び”において最もハードルの高い部分だと言えます。
普段からのリサーチは必要ですね(笑)

M君へ
今の君の疑問を倫理的社会的法的あるいは良いか悪いかで判断すると収拾がつかなくなる。
それらの線引きは時代や立ち位置によって全く変わってしまうからだね。
つまり普遍性という点でかなり強度が低いんだ。
だから今自分にとってそれが必要かどうかに判断の基準は置くべきだね(ちなみに「必要」という言葉も沢山の要素を含むことを忘れないように)。
「その人の心の安定のためには今その教えや団体が必要かどうか」だけが信仰する当人にとって大事なことなわけだ。
換言すれば「頭の中で混乱しきっている人たちにとっては差し伸べられた救いが社会的にどう評価されていようと実質関係が無い」のだね。

そんな宗教は「必要な人には必要」だが、君も私も今のところは必要が無い。
君も私も今は十分に心が安定していると言えるからだね。
でもそれを必要としている人たちをあれこれ批判するのは、君自身の混乱に拍車をかけることはあっても疑問の答えを出すための助けにはならないよ。
今はそう考えるべきだろう。

本質的に私たちは安心できる未来予測をほしがる。
そして現代は性急に結果を出すことを求められ冗長さを極限まで削るコトが推奨されがちだ。
しかしながら関係性の中でしか成立しない「自分」を涵養するにはバッファーは不必要どころか必須の要素なんだ。
それは生物という存在そのものがある範囲で揺れ動きながら反応を安定させるモノだからだね。
当然脳内もそうなっている。
そもそも我々が「無駄」と思うのはあくまでその場そのときに必要性を感じないからだけど、その判断そのものが上に書いたように偏った認識をベースに成立している。
ハードサイエンスなどの厳密な証明を除けば我々はテキトーな「確率偏差」を予測しているに過ぎないと思うよ。
だから我々は「信じられるモノ」を求めがちだし、信じられる対象を作って安心を得ようとする。

繰り返すが宗教や信仰(だけではないけれど)に本質的は良いも悪いもない。
信じる、つまりデータの情報化や切り捨てと加工は脳が自動的にいつもしていることだし、それが行き過ぎてどうにもならなくなることなんて当たり前にあるんだ。
つまり信仰とは私たちに備わった処理反応の一形態でしかないのだね。
宗教団体がカルトであるとか反社会的であるかどうかは全然別の問題として議論すべきモノなのだ。

私が君に話しているのはそういうことなのだね。
納得してもらえたかな?

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