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信仰について

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信仰について

この稿は以前書いた感謝ということとすこし重複します。

まず初めに申し上げておきますと、私はあまり信仰というものに自分自身が重きを置かない人間です。
正確には何か仮想象徴を崇めるということをしません。

なんだかよくわからない領域があることはなんとなくわかるが、それはこちらがどのように考えていてもあるし、やたらありがたがったとしても都合よく作用してくれるものではない。
逆に粗末に扱おうがどうしようが作用するときは作用するものである。
そのように考えています。

治癒という現象の根源を追い求めてはや30年近くになりますが(我ながら長いなと感じます)、治癒の本質的な反応はどうやら「よくわからない、言葉にするのが困難な領域」がその出処だろうと、やっと最近目星をつけられるようになりました。
それは古来から「心」と呼ばれるものかもしれません。
それらは別にこちらがどうあろうと存在していますし、こちらが考える「善悪・正誤」と振る舞い、思考に関係なく、きっかけさえあれば現実に反映されます。

平均的そしておもいっきり概算的に俯瞰してみるに、一般的に正しい行いや考えとされている方向性が、当の本人に最終的に利するという確率は言うほど高いものだとは思われません。
いくら他者を利するような、言ってみれば賞賛を受けやすい行為行動を行おうとも、それが「よくわからない領域の都合の良い利用」を保証してくれるわけではなさそうです。

誤解なきよう申し上げておきますが、私は他人のために尽くすような生き方が損である、などと主張しているわけではもちろんありません。
経済には損得はあっても、生き方に損得なぞありませんし、本人が納得するよう行動し生きるべきだと考えております。

わたしがこの稿で書きたいことは「治癒の本質を司るのは私達の思惑や想像を超えた領域であり、その領域とつながるきっかけはこちらの都合で定めた善悪、正誤の概念を超えた何かだ」ということです。

では(私もまだ達成できていませんが)正しく悩み、正しく失敗し、そして正しく満足することためにリンクする必要のある領域との”導管”を利用する手立てとはどのようなものがあるのでしょうか。

逆に考えてみましょう。
この導管を狭める要因とは何でしょうか。

いくつか考えられますが、自分の感覚や思考に影響されて働く「(狭義の)意識という反応」ではなかろうかと私は考えています。
意識は生きている限り、そして脳という臓器が働く限り存在し続けるものですが、これが邪魔をするということはどのような状況を指すのでしょうか。

人間は思考を拡大させることによって長期的な計画を、一般化させながら立てることが可能になりました。
これは集団で生きることが必須の、人間という動物においては革新的とも言えることだったろうと推測します。
何しろ食べ物などを場当たり的に探さなくても良くなるのですから、間違いなく人間をして万物の長となさしめたファクターの一つであることは間違いありません。

同時にこのロジックを操ることに特化した思考という産物は、人間というシステムの中にある弊害をもたらしたと考えられます。
それはあらゆる肉体的危機を避けるべく、恐怖という感情によって生じる突発的問題回避能力を常時スタンバイさせておいたことによる、即時即応力の低下です。

平たく言うといつもすこし力が入っている状態が、リラックス状態によって可能になっていた「直感」を鈍らせる方向をつくった、ということです。

野生生物にとっては半分アタリマエのことですが、他の動物に比べると肉体的脆弱さが目立つ我々にとって、肉体を緊急用にスタンバっておくために必要なエネルギーたるや、相当なものであると考えるべきです。
ましてやそれが恐怖という、内分泌系に負担をかけまくる要因がベースとなればなおさらです。

その恐怖を和らげるためにさらなるシステムを構築し、それを守るためにまた大きな社会を必要とする。
これが延々と繰り返されてきたわけです。

システムが複雑になるにつれて私たちの思考もそれに順応すべく、原始的な反応を切り捨てる必要がありました。
周囲とスクラムを組むにあたり、隊列を乱すことは許されないからです。

このようなストレス状態にあるとき、意識は常に思考を抑え気味になるように制御をかけるものと考えられます。
これは同時に身体に本来的には必要と言えない緊張をもたらします。
別の言い方をするとパフォーマンスを低下させる方へ肉体を誘導することになります。

これは先ほど書いた「直感を鈍らせる」結果を招きます。
”理論”に沿って構築されたシステムの中で生きる上では大方必要なことでもありますが、実感と乖離しすぎて生理や心理が悲鳴を上げることも珍しくありません。
これが私の考える「治癒を起こさせている領域とのパイプを細くする要因」であります。

このような状況下では慢性疾患が蔓延しやすくなることは容易に想像できますが、緊急性あるいは変性した組織の扱いを最も得意とする標準医療においては、物理量を伴わない機能的側面を評価するのは大変かもしれません。

そして私たちのような日常的な機能問題を得意とする手技療法は、肉体を「修理」的に扱うことよりも「調律」して復元させる必要があります。
そのためにはいわゆる「治癒」という現象をより機能的な側面から考える必要に迫られます。

それを考えていった時、冒頭にかいたような「定義不能な領域を起源とするウェーブ」をより効率的に引き出す必要性にも直面します。

そもそも想像も意識も及ばない領域ですから、あれこれ考えてそれを引き出す、というのは矛盾があります。
そこで一旦思考を離れ、身体の判断つまり直感という無意識領域で起きるオンデマンドな判断に任せてみることが肝要になります。
ただし言うほど簡単ではないのは様々な歴史、個人の経験が物語っております。

そこで判断停止の一助として私は「信仰あるいはそれに類する心持ち」を提唱するものであります。
もちろんここでいう信仰は、大仰な祭壇に頭を下げることでもなければ、日常を断ち切って行うような類のものではありません。

言ってみればより納得の行く行動を取るために必要な判断を、手慣れた思考という枠から他のものに移管してみる、ということです。
それはなんでも構わないのですが、日本人にとって手っ取り早いのは仏教、とくに親鸞聖人などが教えている「他力」の概念でしょう。
思考という意識反応から生じた判断基準を一旦諦めて、肉体がよりフィットしやすい無意識を(いっとき)主役にしてみる。
その繰り返しで得られた感覚を徐々に思考に反映させるのですが、一朝一夕では盤石にはなりませんから、地道に1つずつ試して定着させることが大事です。

信仰はいわばそのための熟考洗練された「マニュアルの読む前の心構え」みたいなものです。
そう考えるとなかなか興味深い。
今の私はそう感じています。

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