仏教概論7
仏教概論7
前稿仏教概論6では一切皆苦について考えてみたわけですが、この稿ではもう少しそのことについて考えてみたいと思います。
ここまで書き込んでわかってきたのは釈迦が以下のように考えていたと推測される、ということです。
おおまかには
基本的には生きると言うことは苦であり、覚りとはその状態からの脱却である。
ただしそれは肉体的な負荷がなくなるというわけではなく、受け取る側の脳の状態が(劇的に)変化するためである。
覚ったからといってその状態が永遠に続くというものではなく、常に鍛錬を怠らないようにしないと逆戻りもあり得る。
であり、脳内の伝達物質の状態と心理状態がリンクしていることがわかった現代ならばともかく、2500年も前にこれに準じた鍛錬法を残した釈迦は、歴史に残る優秀な人間であることを強く確信させてくれるものでもありました。
話は少しずれますが、基本私たち人間をはじめとした生物は、生存の可能性が高くなる状況が快楽と結びつきやすい傾向があります。
生存の可能性が高い、たとえば暖かいところで食べ物が十分にあり、睡眠の確保に見通しが得られるならば、たいていの場合脳内の状態は快楽状態を惹起しやすくなります。
微生物に快楽という状態があるかどうかは置いておいて、少なくとも人間の脳内では快楽とは脳内の化学的な状態に還元して考えることができるとみてよいでしょう。
現代ではそれを薬物によって生じさせることも一部可能にはなったようですが、外部からの供給が止まると元通りどころか反作用でひどい目に遭うように、今のところ恒常的かつ反動なしでそれを引き起こすことはなかなか難しいと考えざるを得ません。
これは少し角度を変えてみると外部状況の手助けなしに快楽状態を作り出せないが故に我々はいつもしんどい思いをしなくてはならないという側面がある、といえるかと思います。
しんどいが故に視野が狭まり、それを釈迦は無明と定義しました。
そこから生まれる現実に即さない認識や考え、そして本来の欲求から乖離した動作、行動は私たちの心身に常に負荷をかけ続けます。
これをごまかすために外部刺激による快感を作り出そうと必死になり、ますます奥底の欲求を捕まえづらくなり振り回される羽目になる。
釈迦は「苦しみは(生理的危急のものを除いて)自分の内部で起きる現実との齟齬が原因であり、それはただひたすら自分で是正してゆくより他に解決の方法はない」と言いたかったのだろうと考えます。
この希代の哲学者は、そのロジックがきわめて合理的であるがゆえに、寄り道しまくりな私たち凡人には受け入れがたい厳しさを併せ持っていたと言うことになります。
そしてそれくらいの気合い(真摯に向き合う覚悟)がなければ、自分の内部にある苦しみの炎を消すことはできないとも力説しております。
当時インドを支配していたのはアーリア人が作り出したカースト制度であり、これを背景に祭祀を司るバラモン教でした。
土着宗教の考えであった「再生思想」に、社会全体をコントロールするのに都合のよい「因果応報」思想を組み合わせ、輪廻転生という発想を浸透させていったのも彼らだと言われています。
曰く人は常に罪にまみれており、それはバラモンが行う祭祀やそれらに対して行う寄進の多寡によって除染度が決まる。
また来世によい生活を送りたければ、(バラモン教の定義するところの)よい行いをたくさん積み重ね、それをもってより上のカーストに生まれ変わるよう努力すべきが人の道である、と煽り立てました。
まあ何というか、もろに「搾取やないかい!」と言いたくなるような構造を作り、社会を支配していたわけですね。
えげつないとは思いますが、生存競争に勝つべく知恵を絞って安定的なシステム化を目指すという一面がある以上、ある意味自然な流れだったのかも知れません(心情的に許せるかどうかは別ですが)。
ただし釈迦はこの非論理性、非合理性に真っ向から反抗しました。
もっと言うならバラモン教やその教えの浸透している社会システムに従順であれば罪が浄化されよりよい来世が保証される=救われる、という理論や論理に異論を唱えたと言うことになります。
当時のインド社会では相当風当たりが強かったのでしょう。
事実、きわめてうさんくさい人間、教団として警戒されていたようです。
また原始仏教においては修行イコール出家でしたから、継ぐべき家督を持つ家々はまるで人さらいかのように釈迦を忌み嫌っていたとか。
さて私たちの大まかな傾向というのは概ね把握できましたが、視野を狭くする背景にはもう一つ大きなものがあります。
それは私たちが自我という、実体がなくかつ限定された思考の間を流れるよくわからないものに拘泥しがちであることが、問題をややこしくしています。
自我は思い込みの別名みたいなところがありますが、無明であるが故に思い込みは膨らみやすく、膨らんだ思い込みは視野の狭さを加速させます。
こうやって改めてみてみると、私たちの心理的な苦悩のほとんどはきちんと現実を把握しないがゆえに(時間的にも実感としても)ずれた認識/思考が生じ、結果として行動も体の要求と離れ、その結果形成された思い込み=自我にこだわってなおさら泥沼にはまってゆくことで起きるものであるといえそうです。
まだ勉強を始めたばかりなので断言はできませんが、自分のことを考えてもそう間違ってない解釈だと感じています。