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仏教概論5

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仏教概論5

前稿仏教概論4では、柄にもなく「(仏教における)愛」について書いてみました。

もちろん詳しい人からすると話にもならない考え方、文章であろうものですが、恋愛至上主義のようになっている現代の価値観は再考の余地ありだと常々感じておりますので、これを機会にもう少し考えてみたいと思います。

愛に限らず、一般に人間を激しく興奮、高揚させる要素は概して自我の強化に役立つと私は考えています。

自我を改めて考えてみますと、それは川の流れのようなものではないかとみています。

川というのはその周囲に陸地がなければ存在できませんが、さりとて実体がないと言い切れるものでもなく、そこに水の流れがあれば川と認識するわけです。

いったん形成された川は、雨が降ったりするたびに(おそらく多くのそれは)流れをましてゆき、川幅も広くなることが予想されます。

ある程度大きくなるとそれはまるで独立した存在のように私たちには感じられますが、やはり周囲の陸地が消滅すると川の流れも消える運命にあります。

さらに言うなら、川を形作っている陸地さえもその下にある地殻の動きで消えたりしますので、これも実体があると断言するには無理があるのかも知れません。

私たちのしんどさの根源になっている「自我への執着」は、この川の流れこそが実体であると思い込むことに他なりませんが、なぜ脳を発達させればさせるほどこの思いは強くなる一方のように見えます。

前稿で書いたように脳という臓器の特性がその背景のひとつになっていると私は考えるのですが、これには私の体験からくる実感も一役買っています。

以前、ほぼ完全にリラックスできた状態を経験したと書きましたが、このときのことをもう少し詳しく書いてみます。

このときの心的印象は「どんなものにも価値をつける気になれない」といったものでした。

それはもちろん無気力からくるものではなく、ただそこにあるとわかるだけで、それが自分にとってどのような意味があるのかを考える必要が無かった、というのが正しい表現のように思えます。

ただ生きているだけで楽しい、とも書きましたが、それも正確には「自分とそれ以外のいかなるものにも不快感を感じることがない」状態で、外的刺激に対して不必要な反応が一切無いと言えばよいかと考えます。

外的刺激を一切拒否する必要が無く、その結果として刺激を絞り取り込む際に生じる思考もほぼ無いかあっても最小限しか生じず、当然そこから生まれる不安と言ったネガティブな心理状態は、無いか仮にあってもすぐに納得できる状態にありました。

通常体の組織は一部の例外を除くと、スムースに働かないときほど活性度が上がる傾向があります。

脳の機能状態を見るfMRIなどで活性状態になっている部位は、通常の効率を超えて働いているか、元々機能的に低い部分がちょっと働き始めただけでオーバーワーク気味になっていることを示しています。

刺激を抵抗なしに処理できている状態は、きわめて効率的で先のfMRIなどでは活性度は低いことが多いそうです。

つまり「何も考えずにすむ状態」というのはきわめてスムースでリラックスしている、と私は考えます。

これを上記の川の例えと照らし合わせてみると、様々な生理的あるいは外的内的要因から生じる“確立された思考”=陸地は、そこにある決まった流れを持つ自我を生じうると考えられます。

しかしきわめて高度のバランスされた脳のある状態は、その思考が生じづらいあるいは生じても最小限であるため、自我という流れを生じないか生じても固定されないこと推測されます。

別の視点から見ると、さまざまなデータを絞り込んで情報として意味づけし、取り入れる必要の無い内部環境が確立されれば、自我が固定される恐れもまた格段に少なくなり、結果として常に最小限の思考しか生まず、並行して生じる自我もまた内部に占める割合が小さいと考えられます。

わかりづらいと評判の当サイトなのでもう少しぶっちゃけた言い方をしてみるなら

「覚った状態とは周囲の出来事がただ体や頭を通り過ぎるだけで、それを考えて取り込む必要の無い状態」といえるかも知れません。

さて前述の「愛」ですが、刺激の強さでは他の要因をぶっちぎってトップにあると個人的には考えております。

現代人が最も大切と標榜し、それを常に必要とするというのはどういったことなのか。

愛の定義を誤解を恐れず書くならば

特定の他人から必要とされることでそこに意味を見いだし、その結果自我をより安定したものへと育て上げる

と定義できるかと。

さらにこれを言い換えてみると

すべての現象をあるがままに認識(ただ体や頭を通過させることが)できず、知識や経験と言った動かしがたい材料でできた思考というフィルターを通して形作られた川(自我)の流れを激しくする

すごく略したうえにひらたく言うなら、何かに対しての思い込みが現実をねじ曲げてみせてしまうから、意識と無意識がずれる可能性がある、となります。

何度も言いますが「だから愛はだめ」という話ではありません。

治良に必要な心理状態を俯瞰してみたとき、仏教の指し示す方向は最適であると考え、それを検証してみると、巷間言われる愛の意味が浮き上がってくるようなのです。

しかしこのように正体が徐々に明確になってきても、ついつい目が向いてしまうのが私たちの本質であり、それを否定することはそれはそれで自分の本質の一部を見誤ることになりかねません。

私は皆が皆釈迦のように仏陀になる必要は無いと思いますし、そう生きるべきだとも思っていません。

あれはあれでひとつの身の処し方ではあっても、絶対的に正しいという話ではないはずです。

できないやれないという事情もありますが、ああいった目標を達成できなければいけないという考え方には与する気になれません。

思い込みやそれに影響された心理が引き起こす後悔も、また私たちの本質の一部であり、それを含めて納得するよう工夫しなければわからないことがたくさんあると私は信じています。

釈迦の言うことも真理なら、その反証もまた真理である。

一連の主張を書いてみて改めてそう思いました。

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