越田治良院へようこそ あなたのココロとカラダをリセット

仏教概論37:補足

FrontPage

仏教概論37:補足

仏教概論37:補足

前稿仏教概論37で「人生は不幸がデフォルト」みたいなことを書いたらある方から猛反発を食らいましたw
「人は幸せになるために生まれてきたのだ!おかしなこと言うな!(意訳)」という感じで。

確かに「不幸」というワードはあまり適切ではなかったかも知れません。

認識の齟齬(無明)に始まる十二縁起は、ぐるっと回ってさらに認識をおかしなモノにする。
それが繰り返されて現実とは全く違った認識の塊が出来、何かをするたびにそれが強化される。
これが生きづらさの背景になる。
釈迦は心という現象がそういった傾向を持つことを説いたわけです。

なので不幸がデフォルトというよりは、もともとある生きづらさが経験と共に増すと言った方が妥当だったかも知れません。

初期仏教における釈迦の主張を読んでいくうちに「幸せって本当に『状態』として存在するのか?」という疑問が湧いてきました。
常に死から遠ざかれ生き残れという謎の命令セットにせっつかれている私たちの脳。
結果として警報系による危険回避が優先され、それが恐れ不安を不可避で引き起こすため生きづらさが増してゆく私たちに、時々起きる「生きづらさを感じづらくなる時間」を幸せと表現しているだけではないのか。
それはもしかしたら警報系の反応を上回る報酬系の作用だったりするのでは?
ということは生きづらさと幸せはそもそも対立概念ですらないのではなかろうか?などなど・・

Aさんへ

様々な反応が最優先システムである警報系を宥める。
ある程度健康を保っている脳ではそのように全体が機能しています。
しかし基本はあくまで「危険回避最優先」であり、これは不安恐怖という「ストレス要素」とセットになっています。
これがある限り、私たちは「苦」から逃れることは出来ません。
つまり多くのごく普通に生きている状態はイコール「生きる上での抵抗を少なからず感じている」わけです。
抵抗には高低があるでしょうけれど、これがなくなることは特殊なケースを除けば原則ありません。

私を含む大多数は「だからうれしいこと楽しいことを見つけてしのぐ」方向へ行きます。
釈迦は「生きづらさをイメージのハンドリングで消す」方へ行きました。
もちろんどちらが正解か、という話ではありません。

「幸せであらねばならない」「幸せにならなくては生まれてきた意味が無い」
もはや現代社会では強迫観念に近いイメージの文言となっていますが、本当にそうでしょうか?
幸せという言葉をより分解して一般化してみると、案外「ん?」となりそうですが。
少なくとも「世間一般或いは他人様の基準に合わせる必要なんて全然無い」コトだけは簡単にわかります。
それを達成できないからと言って「意味が無い」などとはならないことも(そもそも意味を求める必要すら無い)。

お金が欲しい、美味しいものを食べたい、色々楽しみたい。
本心からそう思うなら大いに追い求めるべきでしょう。
全く正しい。
ただそれは自分の内部で感じている「生きる上での抵抗感」に対抗するためのモノだと思えるのです。
これは決して悲観論などに立脚しているわけではなく、釈迦の主張や脳の機能を知れば知るほどそう思わざるを得ない。
私はそう考えています。

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL.

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional