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仏教概論35

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仏教概論35

「ありのままに」
この言葉がお好きな方にはまことに申し訳ないのですが、わたし個人はこの言葉を耳にするたびに「無茶すんな」と感じてしまいます。
現実的には、或いは初期仏教的に言うなら「人は原則的に“あるがまま”を認識できない。必ず自分のイメージによって構築された“予測フィルター”を通してしか今起きていることをとらえることが出来ない」ために、自分自身を認識するときも歪みを取り除くことが出来ません。
結果として生じた感情も、生理的な範疇にある情動が生じさせる気分もこれらの影響下にあり、周辺状況とはかけ離れた認識をもたらすのに一役買うことになります。

これ自体は脳のクセみたいなものなので、今更わたしが難癖をつけるような問題ではありません。

脳の中の痛みという本があります。
有名なカイロプラクターが書いた本ですが、痛みを全体的に見直そうとした著者の長年の考察による名著です。

近年慢性痛が「脳の錯覚」或いは「脳の誤作動」というフレーズで語られるようになっています。
間違いではないと思う反面、あまりに安易な(或いはキャッチーな)物言いを考えたものだとわたしも思います。

本書の中で著者は「痛みには3つのカテゴリーしかない」と題し、「その3つとは1.侵害受容性疼痛 2.神経因性疼痛 3.心因性疼痛である。(P9より抜粋)としています。

3の心因性疼痛に関しては「胡散臭い」と一蹴しています。
2の神経因性疼痛は神経そのものの損傷、例えば糖尿病に併発するあるいは癌に侵食されたりなどの損傷によるもので、現在のところ治療法は極めて限られているとしています。
私たちが通常扱う問題のほとんどは1の侵害受容性疼痛であるともしています。

以前「腰痛は脳の誤作動」説を考えるでも書きましたが、何らかの緊張、それが内因性由来であっても結合組織の制限であっても、がもたらす交感神経系機能亢進→毛細血管系の緊張→ポリモーダルセンサーの酸欠/興奮は、痛み信号の増加を招きます。
さらに脊髄レベルを含む中枢神経系の可塑性は、入力された信号がいかなるものであっても「痛みサーキットの興奮」を起こしやすくし、痛みを感じる機会は激増します。

痛みの原因が内因性由来によって大きく占められている場合、多くは「現実と認識の間に乖離が大きい」とみてよいでしょう。
つまりこの時点で「ありのまま==思いこみによる現実誤認」は非常にリスキーであると言えます。
当然痛みがない時点においても、中長期的にはやっかいな方向へ牽引するという意味で「やめといた方が良いよ」と長年痛みに関わっているわたしはアドバイスせざるを得ません。

ありのまま(つまり自分基準を変えることなく)過ごせばどうやっても苦のスパイラルに自ら飛び込むことになる。
さっさとなんもかんも手放してわたしの言うとおり鍛錬して心の安寧をゲットしろ!
釈迦というムチャ振りおじさんはそのように言うわけです。

「いや意味分かんねーし」
それがごく普通の反応でしょう。
心という混沌そのものの分析解析法としては興味を持ちますが、実践しろと言われたらわたしも「俺にかまうな」と無視してしまいそうです(笑)

それくらい私たちの脳味噌は、よいとわかっていても普段使いのサーキットから離れることに抵抗してしまいます。
これを分かった上で「今ある状況、つまりありのままをとりあえず観察してみる」のであれば認識の歪みからの(部分的な)脱出には有効だと考えます。
上にあげた「侵害受容性疼痛」を引き起こす緊張は、今ある状況と自分の認識の齟齬により悪化しうるからです。
そのままで良い、ではなく、そのままをみて評価をしない。

初期仏教的あるいは脱慢性疼痛の手段として「ありのままを観察」してみて下さい。

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