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仏教概論31

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仏教概論31

ネットカルマ 邪悪なバーチャル世界からの脱出 を読んでみました。
ネット社会における反応の過剰さ、残酷さや容赦のなさを業(カルマ)になぞらえて分かりやすく書いています。

この本のP179に次のようなことが載っています。

「心によってあらゆる方向を探し求めても、自分より愛しいものはどこにも見つからなかった。
他の人たちにしても同じである。
みなそれぞれに自分が愛しいのだ。
だからこそ、自己を愛する人は、他人を害してはならない」

サンユッタニカーヤ第Ⅲ編第一章-8

最近、本当はずっと昔から意外と多くの人の中にあった訴えだと思うのですが、「他人のことがわからない」「思いやるってどういうこと?」「共感って本当に出来るのか?」といった悩みを打ち明けられることが増えてきました。
少し前なら、例えば親が戦前生まれでそのころの修身道徳をたたき込まれた世代に育てられたわたしたちのような人間は、そういう疑問を持つこと自体に抵抗が出るようになっていました。
その部分を疑い議論すること自体を止められている人間にとっては、上記のような疑問は御法度だったわけです。
その一方で最近の情報共有化のすさまじさ、脳科学のめざましい進歩は、こういった「自分以外の人間をイメージする」ことがどういう生理的な必要性から生まれるのかを暴き出そうとしています。

本質的に私たちの「理解」を促すのは実感です。
この実感は「生存を脅かす恐怖」をセットにすることがもっとも根付きやすいようになっています。
恐怖を得た経験は学習率が飛躍的に高まるのです。
もちろんそれ以外の感情や体感も実感を作りだしますが、基本的に恐怖を喚起する警報系のシステムが脳内で最優位である以上、これよりも強い学習効果を上げられる反応はありません。
また恐怖を再び感じなくて済むよう、その原因をや対策を怠りなくするのも、この恐怖がセットになった実感の特徴と言えます。
これが喜び(強烈な快感を感じる手前)がセットになっていても、恐怖が一度上塗りされただけで簡単にひっくり返っていまいます。
これは脳の可塑性という根本的な生理反応に関わるので、心理学的アプローチなどで変えられるような原則ではありません。

さて、他人の心情を理解する、思いやりを持つ、共感などはこの恐怖とどのように関わっているのでしょうか。

私たちの脳は「死から遠ざかるように自分や周辺を設える」そして「その際自分の脳内世界とのつじつまを合わせたがる」という基本原則に突き動かされています。
脳がそうなっていると言うことは、言い換えるなら私たちは原則それに逆らうこと、あるいはそれを問題だととらえることが難しいと言うことになります。

肉体的に比較的脆弱な私たちは脳というシステムを最大限に使って生き延び、万物の霊長としての地位を獲得してきました。
反射や力では人間以外の外敵に対抗できないため、戦略や戦術を駆使する方向へ進化してきたとも言えます。

その戦略戦術の一つが「集団でシステムを構築する」です、。
少人数よりも多人数のほうがより大きな構造やシステムを組むことが可能になる。
これは一つの真理と言えます。
これに気づいた私たちの先祖は、言葉や道具を駆使しつつ、自然に対抗するように内外の環境を構築してゆきました。
もちろん失敗もあったわけですが、そのたびに生存を脅かされる状況、環境下で「生存確率の低下を伴う恐怖に修飾された経験」として、集団内で共有し語り継がれてゆきます。
この集団システムを作り、運営し、より強固なものとするプロセスにおいて、集団内の自分以外の構成員を理解することは、しておいた方がいいなどというレベルではもはやなく「やらなければ外敵か内部のルールによって生存を脅かされる」と言えます。
つまり「生き延びたい」という本質的な衝動がもたらす「恐怖」がその必要性を強調するのです。

一方脳は働きは精緻だけども、その進化的軌跡はゴシック建築のように後から必要に応じて積み重ねられてきた臓器です。
最新の構造である前頭葉をはじめとした大脳皮質は、私たちの高度な機能の多くをになっていますが、これも進化に伴い積み上げられてきた構造に依存しています。
反射だけで生きていた私たちの遠い先祖は、そんな構造も機能もない、あるいはあっても非常に稚拙なものだったと推測されます。
そんな必要も(本当あったかも知れないけれど)無く、必要を感じてもシステムを構築するなど夢のまた夢くらいの開きがあったわけです。

猿などにも備わる反応に「ミラーリング」というものがあります。
これは有名なミラーニューロンがもたらす「高速シミュレーション」を基礎とした「感情体験システム」によるものです。
例えば相手が苦痛を感じている動作や表情は、私たちの運動器に同じ反応を下命するよう促します。
苦痛の表情では相手と同じ表情筋が緊張しますが、これはイコール同じ脳内反応があると考えることが出来ます。
それは同時に脳内での恐怖反応を喚起します。
主に扁桃体をはじめとする警報系が興奮させられますが、末端らのフィードバックによってこの脳内反応は増強、加速します。
つまり苦しがっている相手を見ることで、その感じているであろう恐怖を擬似的に体験します。
ただし実際の損傷反応(痛み)を感じるわけではないので、実感としては比較的薄いものですが、既に体験済みの経験があると脳の可塑性は強固なものとなります。
この際も恐怖反応がもっとも強いミラーリングを起こすことは言を俟ちません。

こうして外的には「敵やルールによる生存確率低下の恐怖」によって、内的にはミラーリングと恐怖が結びついた(場合によっては疑似)体験によって「集団内メンバーとうまくやる必要性」が生まれてきます。
しかし恐怖ばかりでは長続きせず、それだけを強調しても既に平和になったシステム内で実感を伴いづらいとあまり効果はありません。
また、システムが高度かつ安定してくればより平和的な側面が好まれるようになるのはまた必然であり、あまりエグい方向では語り継がれないという事情もあったのでしょう。
その表層だけ、この場合相手の状態をイメージすることだけが重要視されるようになったと推測されます。
これが徐々に“口当たりのよい言葉”に置き換えられてきた結果、それが生まれた理由が忘れられ、真意や必然性がわからない「標語」だけが一人歩きしている。
そして生きるために必要な場面でのテクニックだったはずのこれら「他人に対するイマジネーション」は、いつの間にか「人として必須の機能」のように認知されるようになりました。
しかし前述のように意外といい加減に構築されてきた脳という臓器は、時々ミラーリング機能の制限やそれとつながっているはずの恐怖反応の欠如をもたらしたりします。
何故そうなるかはわかりませんが、ある一定の割合でこうした「集団内でうまくやる能力」が発現しづらい発生学的な方向性は出現するようです。
彼ら彼女らは他人の感情、恐怖を感じづらく、感じたとしても恐怖などの強い感情に修飾されづらい、あるいはその両方によって「他人の内面をイメージし、それによる疑似体験と実感」を得づらい個体となります。
わたしはこれらが「他人を理解できずに苦しんでいる人たち」の背景にあると考えます。

でも大丈夫、私もそんなに自分以外を理解できていませんが、そんなに完璧に他人をわかる人に出会ったことはありません。
出来ると言い張る人は沢山あってきましたが(笑)、まあ何かの間違いでしょうと思うことにしてます。
だって誰もだって程度の差こそあれ、遺伝子レベルでの機能偏向はついて回りますし、外的現象を脳内世界というレンズを通してみている原則には変わりが無いのですから。
「自分は絶対に完全普遍の機能を備えている」と主張する方を疑うのはごく自然と言えます。

初期仏教においても仏陀たる釈迦の語ったであろう「これこれこういう理由でこれはすべき/してはいけない」と言ったある意味分かりやすい言説は、その後の変遷を経てゆく課程で「どうしてそんなことを言ったのか分からん」となっていったのではなかろうか。
わからなくなったのか、わかりすぎて説明するまでもないと考えたのかは不明ですが、我が国において大乗仏教が若い人に受け入れられない理由の一端はこういったところにあるのでは無いか。
私は個人的にそう考えています。

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