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仏教概論30

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仏教概論30

AI関連の本をいくつか読んでみました。
研究者ごとに当然意見は異なるのですが、いくつかの本には「AIは思考している」というお話が出ていました。

さてこの「思考」について少し考えてみます。
脳の大原則として

・エネルギーを使いたがらない
・新しい回路を作るのは(原則)苦手
・データは沢山あるけれどいつも使うサーキットとの相性で情報として扱われるのはごくわずか
・自身を安定させる情報あるいはデータを優先して取り入れる(知りたいことを知りたいように知ろうとする)

などの基本的生理要件があります。

この生理的な原則に沿って、すでに取得済みの情報を組み合わせ

・死を回避する方向性の模索
・脳内つじつま合わせプレイ

を(ほぼ)常時行っているのが私たちという、脳をここまで発達させてきた動物だと言えるでしょう。

この「取得済み情報を組み合わせること」こそが思考そのものであり、ある種の連想であるとも言えそうです。
逆に言うなら「知らないことは考えの中に組み入れられない」のが私たちなのです。
「いや、そんなことはない。しらないことでも“閃く”ことがある」
そういう意見はよく聞きますが、出力を伴わない、そして末端からのフィードバックも限られた状況下では、脳は既に意味づけられた「自分にとって親和性の高い情報」だけを頼りに思考を組み立てる傾向があります。
閃くという現象ももちろんありますが、これは既に取得しているけれども意味づけが成されていない「野良データ」が取り込まれ、今作っている内部ストーリーを強化するときのものであり、決して超自然的な何かが「降ろす」ものでは無い、と私は考えています。

そういう意味ではAIあるいはコンピュータと呼ばれるシステムは立派に「思考している」と言えそうです。

ただ違いは色々あって

・プログラム次第ながら目的のためには手段を選ばず

が最大の特徴だと言えましょう。

まずこの点について、私たちは(一部の人を除いて)機械にはかないません。
それは原則もっとも使い勝手のよいサーキット、つまり自分という枠を構成するイメージの集合体≒自我が認知を偏らせるのが私たちならば、自我そのものがなく、プログラムに沿ってもっとも効率のよい方法を選択するように思考するのが機械だからです。

取得したデータに意味づけをする必要が無い。
生存の延長を望むわけでもなく自我もない。
そこに対する親和性も疎性も無い機械は、どのようなデータも平等に扱うことが出来、かつ目的達成に必要とあればいつでもそれを利用することが可能です。
つまり思考のフィールドが生き物とは比べものにならないくらい広く、目的達成に対する情報の扱い精度が高いのです。
そもそも感情という生理を圧迫しうる要素のリンクがないため、情報の変質も劣化も(機械としての要素を除けば)生じ得ません。

これは自分を守る必要が無い機械だからこそ出来るコトで、他者に対する憐憫はもとより、自己保存のためにシミュレーションを行う必要も無ければ、それによって生じる「痛みの模倣」も起きず、当然そこから生じる逡巡もあり得ません。
選択肢の可能性を探るという意味では「どちらにしようか」はあっても、です。

要は私たち生き物は「生きるためにあれこれ情報を駆使し、人間はそれが地球上の動物で最大になっている」からいつも迷い、苦しむ。
釈迦という人が言いたかったのはそういうことだと、今回の読書を通して改めて認識した次第です。

そしてこの「思考」という行為、反応は、明らかに体のリソースを消費します。
脳も臓器である以上、これを激しく使う反応は他の臓器、組織へのエネルギー供給効率を低下させ、親和性を低下させます。
影響力がもっとも強い臓器であるが故に、長期化すれば問題は指数関数的に増加してゆくでしょう。

結論:思考をなくすことは(現実的に)不可能である。
なくす必要も無い。
ただし体の効率を上げようとするならば、思考という「過去に生成された情報をつなぎ合わせる行為」は最小限、あるいは可能な限り短時間にすべきである。

思考をしている時点で既にプリロードのかかっているセンサーは、それだけでエネルギーを必要以上に消費するのですから。

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