仏教概論21
仏教概論21
「先生はヒトの人生において“楽しみ”を認めないのですか?」
いきなり治良中に真顔で聞かれてしまいました。
「ん?」
いろいろ”不徳の致すところ”が多い私ですが、一瞬何のことなのかわからず考え込んでしまいました。
その後どうやら仏教概論シリーズに対するその方なりの感想であると言うことに気がつきました。
とりあえず「読んでいただきありがとうございます」という、素っ頓狂な答えを返したわけですが・・・。
仏教、とりわけ釈迦の教えそのものと言われる初期仏教は、
・きわめて個人的な悩みを解決するための修身法
・それはあくまで“心=脳の挙動”に焦点を絞った方法論
と言う側面があります。
なので宗教というよりも哲学とそれを実現するための実践マニュアルと考えると分かりやすいかと、個人的には思います。
では宗教では無いのか?と問われれば「私の言ったことを信じて実践するならば悩みはなくなる」という点で個人の判断の停止を求めるわけですから、立派な(?)宗教であるとは言えます。
ただし信じなければ進めないのはそれだけで、後は「たとえ私の教えでもまるまる信じたりするな、疑って考え抜け。教えを実践体得したらさっさと捨て去れ」が基本になりますが。
「君らの悩みはなーんにもわかっていない見えていないからこそ起きるの。だから事象を正しく認識する訓練が必要なんだけど、それをするためには修行三昧で過ごす必要があるワケよ。そのためにはあなたの意識が特定のモノやコトに拘泥(執着)するのは避けるべきだったりするんだ。親とか家族とか恋人なんてその最たるものだし、財産や仕事なんてのも失う恐怖が正しい思考を邪魔するんだね。だから生産性のあることや自給自足なんてしちゃだめだ。ただし霞を食べて生きるわけにも行かないから、日々の糧は基本的には外部の人たちに頼ることになるよ。乞食(こつじき)するからね。そのためにはサンガ(僧集団)で正しい生活/修行をし続けなけりゃ。じゃないと誰も恵んでくれなくなるよ。大丈夫、今(2500年前)のインドは我々のような浮き世離れした人間にやさしいからさ。いいかい、もう一度言うよ。我々の目的はあくまで『苦しい心を解放すること』だからね。そのためには既に解脱した私の言うことを一言一句疑いなくトレースするんだ。余計なことを考えて集団内で広めたりしたら即破門だからね。戒律をきちんと守らなければ修行は続けられないから、ただただ精進しなさい。」
私の考える現代風口語体で仏教を説明するならば上記のようになるでしょうか。
そもそも釈迦の考える「苦」とは、苦痛や煩悶はもとより、瞬間瞬間に起ち上がる「意味づけ機能がもたらす評価」によるものすべてを指していました。
リンゴをみて「美味しそう、食べたいな、そういえば以前食べたときは歯に皮が挟まって不快だったな、赤い色は楽しくなるな、血糖値は大丈夫かな・・」などなど、瞬時にいろいろなコトが連想されるように私たちの思考は設えられています。
なぜなら思考というのが記憶同士を結びつけて瞬間瞬間生存が有利になる、あるいは快感を得られる確率が上がる方へ誘導するための反応に他ならないからです。
この反応そのものは「なくせ」という方が無理な話で、生物であればごく普通に立ちがあるものだと言えましょう。
さて問題はこの時生じたいいとか悪いとか苦しいとか楽しいとか言うイメージが、
・簡単に収束せずにいつまでも心を振り回す
・神経細胞における興奮を持続させ、疲弊を招き、気分の落ち込みを作る背景となる
・その体験が学習となり、評価反応が拡大しがちになる
・あまりに多い経験、学習効果が「その場面においてもっとも必要な判断をするための基準」をわかりづらくさせる
ことです。
これらは大脳における強力な学習機能がもたらす副産物でありますが、普通に生きていればどうやってもついて回ることでもあり、自己啓発程度で解決できるレベルの問題ではありません。
ここで少し生理的なお話を。
苦の根源の一つである「肉体的な苦痛」は、その多くが不安を引き起こしますが、これには常に感情による評価が先行します。
痛みの経路、そして関連する神経核は多くが同定されていますが、島皮質、前頭前皮質、扁桃体は痛みに対する感情的な評価を下すことがわかっています。
これは知覚識別とは違う経路で上行してきたものが一つになる領域でもあります。
ここで「この痛みは自分にとって脅威なのか」「長引くのか、すぐおさまるのか」「以前感じたものなのか」など、主に恐怖に修飾された記憶と類似しているかどうかをチェックし、中脳水道周囲灰白質や吻側延髄腹内側部などへその結果を伝達します。
これが「大丈夫」という評価とともに送られると、痛みの下降性制御信号がONになり、同じ末端興奮状態でも、中枢での感じ方は穏やかなものになります。
逆にネガティブな評価が下降性制御に混じると、オフになったスイッチが痛みを過剰に感じさせることになります。
かように同じ刺激でも私たちに与える印象、インパクトは常に一定ではあり得ず、こういった側面がまた脳内での混乱に拍車をかけたり収束を早めたりします。
閑話休題。
これらの生理的な反応による混乱を自力で超克したのが釈迦という超絶頭脳をもった社会不適合者で、それをマニュアル化したのが「仏陀」の「教え」である仏教である、と言うわけです。
なので正確に書くと「初期仏教、あるいは仏陀が楽しみを認めなかったの言うのは厳密には正しいとは言えない。ただジェットコースターのように上下する気分や、その差分が生じさせる快感/興奮とは違う種類の“楽しさ”を得るための方法論が仏教における修行であり、生物としての第一義である『死にたくない快感を得たい』を否定するものでは無い」ということになります。
では人類はそのきわめて論理的な考察の末に導き出された方法論を採用するべきなのでしょうか。
実はここが最大の問題なのですが、いくらマニュアル化に成功したとは言え、我々の大脳生理を操る方法である以上、そこには「個人でカスタマイズしないと使えない」領域が(原理的に)含まれていると考えるのが妥当です。
相当あるいは限りなく有効であると言えますが、絶対に正しいと言うわけでは当然無い。
私の初期仏教に対する評価は今でもそのようになっています。
Hさん、これでいいですか?