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仏教概論2

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仏教概論2

エラソーに書く割にはたいしたことを知っているわけでもないのがばれたのが前稿「仏教概論」ですが、懲りずに2をUpします。

さて今回のお題は「輪廻転生」についてです。

正直言って来世/前世なるものがあるのかどうか私にはわかりません。

無いと思っていますが、あると考えた方が説明のつく場面もしばしば。

この輪廻転生に対する概念に「解脱」があります。

古代インド宗教-いろいろ混じってまとめてヒンドゥー教といいますが-では「生きていることはすごくつらくて、しかも未来永劫それは繰り返される(輪廻転生する)」と考えられていました。

輪廻転生というと私たちの感覚では「死んでも次のチャンスがある」というイメージの方が強そうですが、古代インドでは「無理矢理しんどい来世を繰り返させられる」と信じられており、どちらかというと苛烈な罰ゲームのハズレくじをものすごい高確率で引き当てるイメージだと聞いています。

だからこそ少しでも楽な来世になるように無茶苦茶しんどいことを先にしておいてポイントをためておこうという発想が例の理解しがたい苦行につながるとのこと。

気持ちがわからないでもないですが、どうにもついて行くのが難しいなというのも正直な気持ちです。

輪廻転生というのはそんな夢も希望もない考えですが、古代の人々は苦難の連鎖の中で自分の輪をこぎ続けるハムスターのごとく生きるのが私たちであると前提していたようです。

でもそれには唯一脱出口があり、それは覚りを得て仏陀(目覚めた人)になることでその連鎖から逃れられるという解答も用意されていました。

ちなみに仏陀というのはインドにおいては一般名詞(?)として扱われ、釈迦族のゴーダマシッダールタその人を指す固有名詞というわけではなさそうですので念のため。

で、彼ゴーダマのシッダールタは35歳くらいの時に「私はもう二度と生まれ変わることはない」と宣言し、輪廻転生の輪から一抜けしたということです。

これを「解脱」といいます。

歴史上それは彼ひとりだけが達成したとなっていますが、いくつかの本には「それ以前にも絶対あったはず」という記述もありますので、本当のところはわかりません。

釈迦その人が生きた時代は古代宗教の影響下にあったわけで、当然その教義に強く影響を受けていたと思われます。

現代日本人が考えるよりもそれははるかに強く、そして深く根付いていたはずの考えをあっさりと覆し「苦行は覚りにとって邪魔」とか「生まれ変わらない」などと発想すること自体、この人の頭の良さやアナーキーさを物語っているようで非常に興味深いと感じています。

さて仏教(仏陀の教え)は輪廻転生をどう考えているのか。

いくつかの本を読んだ限りでは原始仏教と呼ばれる「初期の教えをまとめたもの」はそのことについて言及してはいないようで、その後ヒンドゥー教の方から仏教を取り込もうとしたときに混じってしまい、それが私たちの目にする仏教になっている、とみたほうが良さそうな感じでした。

ですから、最初から釈迦本人は輪廻転生そのものをおかしな考え方とみていたと考えるべきのようです。

彼はもてあました自分の苦悩を解決すべく我々からみれば身勝手とも思える行動の末、現代日本の大多数の人間には理解できない苦行に身を投じ、ついにはそれを捨てて沈思黙考ののち覚りの境地に達したとあります。

つまりそもそも他人の唱えた教義や宗教を「なんか変だ」と思っていたという説明の蓋然性は極めて高い、ということになります。

要するに「きわめて論理的あるが故に論理に逆らえずアナーキーでもあった」ひとだと推測されるわけです。

その論理を突き詰めて出てきた答えは「何だ、人間はいつも不安や恐怖にさらされていて、その原因は大体四つ(生老病死)に分類されるんだな」でした。

それは同時に死後の自我のあり方へ自動的に及ぶ考えのため、おそらくはその時点で「輪廻転生の疑わしさ」を確信したのだろうと思われます。

正確には「そんな面倒な、あるかないかわらない、そしてたいていの人にとっては苦行でしかない輪廻転生なんて考えずとも私は十分に自分の悩みを解決できる」と確信したからこそ、それを否定しちゃおしまいよ的な前提を「もう関係ないから」と言い切れたのでしょう。

しかし私たち日本人の中にある仏教の大半は「生まれ変わり」を当たり前のように取り入れているかに見えます。

この考えというのは、ある程度の普遍性=人間としての変わらぬ悩みに根ざす解答のひとつ、ということになるようです。

死んでも生きていたい。

叶わぬ夢であると同時に掛け値なしの本音といったところでしょうか。

さて、この稿でもう一つ考えてみたいことがあります。

それは「お釈迦様って実は結構エゴイスト?」ということであります。

仏教に関する解説を読めば読むほど、その目的である「覚り」は常に自分自身が達成するしかなく、啓蒙によって一発逆転で手に入れられるものではないということがわかります。

一般に仏教あるいはお釈迦様に期待するイメージとして「慈悲」が挙げられると思いますが、どうやら釈迦本人の中では自分の悩みを解決したあとに出てきた考えのようで、まず自分のためありきというのはほぼ間違いないだろうと感じています。

ましてや「神や仏がお救いくださる」なんていうのは他の宗教や日本に入ってきて変容した仏教の中でみられるもので、「自分のことは自分でしろ、ただしものの考え方や方法論は教えてあげる」というスタンスが基本だそうです。

そうみるとやはり「あの時代においては究極ともいえる修身法」であり、「ただひとり歩め犀の角のように」という言葉に代表されるように、きわめて個人的な方法論という側面が強いのがうかがい知れます。

こういう考えを実践することを「エゴ」と呼んでよいかどうかは私の中でははっきりしませんが、少なくとも「世のため人のため」といった、納得できないまま耳たこ状態なほど聞かされたフレーズよりは説得力があると思います。

そもそも「エゴは善か悪か」という話になり、さらには「善悪とは何か」という議論になります。

個人的な意見ですが、エゴは別に悪ではないが善に位置づけるのも難しい。

釈迦の行動の目的はあくまで自分の揺れ動く心に振り回されないように智慧によって安寧を得ることでしたから、見事に目的達成をしてよかったねという話であり、またその方法論を含めた哲学は優れて論理的で実践的にである、ということでしかありません。

いってしまえば私たち大部分の日本人は仏教なるものを大いに誤解している、あるいはしていたということになります(もちろん私もその中のひとりです)。

釈迦の死後に分裂し(例:小乗と大乗)、中国の思想と融合/変化したものを輸入したわけで、さらには日本独特の解釈が加わり広まっていったのが今の仏教だろうと思われます。

それをみて「間違っているんじゃないの?」などといったところでどうしようもありませんが、少なくともその優れた論理性、普遍性は再考に値するものだといえます。

そしてそこで重要になるのは私たちが社会を築く上で作り上げた倫理(例:助け合って生きるべし)や法律に適合するかどうかではなく、本質的に私たちの生理やその上に発生する心理をよく観察し最適化しうるマニュアルであるということでしょう。

恐るべし仏教、いや仏陀。

私の感想はそれに尽きます。

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