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仏教概論17

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仏教概論17

仏教概論17

信じるものは(仏教的には)救われづらい。
悪い冗談ではなく、前稿仏教概論16において私が出した結論です。

もっとも「救済されたと感じる」の内容は百人百様で、生きづらさって人によって違うなあと改めて思います。

信じることが迷いを生み、迷いこそが私たちの人生を生きづらいものにしている。
簡単に前稿をまとめるとこんな内容になるかと思います。
同時に信じることをしなければ基本生きていることすら難しいわけで、どっちに転んでもひどい目に遭うように出来ているのが私たちのようです。

では信じること無しに迷わないためには具体的にはどうしたらよいのか。
これを少し考えたのも前稿ですが、もうちょっと詳しく考えてここに書いてみようと思います。

まず対外的に迷わないということを考えてみました。
これはある状況下でその先のプロトコルが決まっていることがまず挙げられます。
やぷってはいけないマニュアル(核ミサイルの発射手順など)があったりする場合はこれに当たるでしょうか。
あまり詳しいわけではありませんが、映画などを見ているとアメリカ大統領を巡る状況に対するリアクションは概ね厳格に規定されていて、特に大統領の安全確保や重大な決断を下す場合の「フェイルセーフ」思想に基づく様々なオプションを含む行動は、オタク気味の私などにはとても興味深いものに映ります。
心中穏やかならざるあるいはその行動自体の正当性を信じておらずとも、ある強制力の元に決められた流れは、少なくてもその行動を起こすに当たって迷う必要がなく、必然的にそれ自体への悩みは最小限になるものと推察されます。
多くの人種や思想が入り乱れ、いちいちそれらを斟酌していると何事も決まらず進まずというお国の事情が生み出した、システム運営のための実践的な思想方法論と言うことなのでしょう。
個人の考えを排除して半自動的に行動するよう訓練され、そのときが来たらただ実行するのみ。
行動に迷いが生じる猶予も、それに対して個人が懊悩するような責任も生じないわけです。

今まで迷うというコトを大脳性的に考えてみた場合、大体のケースにおいて恐怖を背景とした不安がその背景にあると書いてきました。
またそれは換言すると意識という「決定を追うように生じる脳内反応」が干渉する結果でもあり、最も後悔が少ない方向性を決めかねている状況下(私たちはいつもほとんどそうですが)において生じると言えます。
別の言い方をするなら身を守る本能が理性を圧倒する状態で、無意識の呼びかけを含めた「最も効果的と思われる選択」を見極めることが出来ないでいるということになります。

では意識を生じさせなければ、あるいは干渉が問題にならないレベルにまで少なければ迷わずに済むのか。
答えは「おそらくだがある程度安定したシステム内で限定された状況ならば”Yes”である」と考えます。
「ちょっとまて、意識を生じさせないなんて、そんなことができるんかいな?」とつっこまれそうですが、ここを少し考えてみます。

意識が生じる要件の一つに「いちいち過去のデータを参照しながら成功確率を上げようとする」コトがある、と書いたことがあります。
この前提がある程度整合性を持つと仮定します。
となれば逆に言うなら「いちいち過去データを参照しなくてもよい行動ならば考えは生じず、結果”意識という自己モニターリング反射”がないあるいは最小限になり得る」と言う説明が成り立ちます。
これも以前脳機能の稿で書いたことの繰り返しになりますが

脳という臓器は

・楽をしたがる
・脳それ自身だけが大切
・脳の中で起きていること以外は“実感”が出来ない

などの特徴を持つことを私は主張してきました。
「楽をしたがる」脳は、出来るだけ意識という逡巡(迷う必要が無ければ意識に上らない)反応を生じさせたくないわけです。
つまり可能ならばすべての行動をパッケージ化して、ほぼ自動的に出来るようにしておきたいのが本音でしょう。
主に大脳基底核が中心となってその「自動化」を推し進めてゆくわけですが、これを実現させるためにはどのようにしたら良いのでしょうか。

あらかじめ書きますが、すべてが自動化されることはまずあり得ませんし、迷いを完全に排除しようという話でもありません。
迷う時間やケースが減るならばそれだけ肩の力が抜けやすいのではないか。
迷いの原因となる背景の一つを生じづらくして、生きづらさの軽減を試みようというお話です。

私の提案としては「出来るだけ規則正しい生活を送る」となります。
道徳訓ではありません。
出家も日がな一日瞑想にふけることも事実上不可能な私たちにとっての、おそらく最も実践的な考えだろうと強く思うからこその提案なのです。
もちろんその段取り、準備は必要ですが、決まり切ったことを毎日きちんと遂行することこそが意識の干渉を最小限に抑える秘訣の一つではないか。
私はそう考えます。

ただし現代はそれほど規則正しい流れの中で生活している人を探す方が難しく、むしろイレギュラーだらけの中をなんとかやり過ごしている人の方が圧倒的に多いと考えるべきでしょう。
そんな人たちはどうするのか。
これは「出来るところだけそうする」です。
某ラグビー選手ではありませんが、事の前に決まった動作や行動をすることによってイレギュラーな事柄に対する準備をする。
ばかばかしいようですが最も効果的であると私は感じています。

「なんだそんなことか」と思われるかも知れませんが、迷わない時間を長くすると言うのはほんの少しずつのことを積み重ねるコトによってじりじりと達成に近づくものなのです。
仏陀の教えはすべてが「理性によってなされる」ものですから、焦って「これさえすれば、信じれば」という文言に飛びついたりせず、あくまでひとつずつ試して取捨選択を繰り返す。

救われる=悩む必要の無い状態の達成はそうそう単純なものではないでしょう。
しかしそこに近づくための方法論として、私はこの「ルーティンを行う」と言うことを提案します。

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