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仏教概論10

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仏教概論10

小池龍之介著「我」を張らない人づきあいを読みました。

賛否両論はあるようですがなかなか興味深く、そして門外漢にも分かりやすい内容だなと感じました。
それは仏道的な観点からと言うよりは大脳生理的な意味合いの方が強いのですが。

上記の本の中でなかなかおもしろいなと思ったのは

・私たちの心は常に刺激を欲している
・そしてその刺激は基本「苦痛」にカテゴライズされるものであり、それを快楽に変換するプログラムが私たちの中に走っている
・悩みや快楽は基本「そう思わされている」のであり、それらを成立させているのは蓄積された“意識”によるものである

と言う点でした。

心というものの定義によりますが、少なくともそれをひねり出している脳という臓器の特性からみるとき、私も基本この考えには賛成します。
私たちが本当の自分と思って(時には探したりしますが)いるのは「ありもしない“自我”を実体のあるものとして後生大事にすることが大きく関わっている(本の中ではそれがすべてのような扱いでしたが)」ためにおきる、ある種の生体維持機能の一面であると個人的には結論づけております。

一方意識という「認識/識別している実感」は、脳が行動を起こせと命令した直後にあらわれるもので、これが脳内信号パターン強化の一端を担っています。
基本的に意識は「脳のアクションが起きてからあらわれるもの」であり、命令を下すと言うよりも命令した事実を学習機能付で保存しておくライブラリーという感じでしょうか。

さていつものように長い前置きになりましたが、私がこの稿で考えてみたいのは「自由意志は存在するか」というお話です。

最近の神経科学は上に書いた通り、意識をある種の後追い反応であるとしています。
すべての反応を意識上に上らせているわけではありませんし、意識化するかどうかの判定をどのように行っているのかはわかりませんが、いずれにしても

・行動を起こす前に当該行動に対する意識は検出されない
・脳の命令からおよそ0.5秒後に意識はあらわれる
・これは大脳基底核を通した一種の学習効果として、その後の行動を効率的に行うためのデータベースとなる
・これらの蓄積された学習効果は、当然その後の行動のみならず、思考を形成するための基礎となり得る

と言った事実は「自分で自由に選択していると思っている事柄は、実は無意識=脳という臓器が生存を高めるために行っている反射に基づくものである」と言う仮説を私に導き出させます。

仏教概論5において自我を「意識という積層された谷間に流れる川のようなもの」と書きました。
意識によって地面がうがたれて出来た川ではなく、平地(無垢の状態)に地層(意識)が複雑に重なり、その結果そこにできた隘路がその正体であると私は考えます。
隘路故にまっすぐではなく、平坦ですらないかも知れません。
先を見通しづらいことこの上なく、全体図はどの角度からみてもわからない。

この“意識群”が作り出す複雑な反応の流れは、その時々の学習結果を保持させたものとそこから作られる複雑怪奇な生理反応の束によって、これまた混沌そのものとしかいえないような思考をひねり出す結果を招きます。
これも思った結果そのようになるのではなく、様々な“流れ”が見通しの悪い道の先に出現した結果であり、その流れがいつどんな記憶を呼び覚ますか予想がきわめてつきづらく、そんないやな思いをまた学習し、考えを出来るだけ自分の都合のよい方へ向けようとします。
それがまた現実との整合性喪失を加速させ、どんどん(あまりうれしくない)秘境へと入り込んでゆくことになります。

生き残るための学習。
これを脳という臓器側から説明すると「その個体の特性や置かれた状況にあわせて最も効率的な選択を行いたいがために、事象を恣意的に固定したイメージに落とし込み、それを元に似たような状況下で素早く行動を起こせるように、大脳基底核及び報酬系を連動させた結果生じた反応系」が意識を作り出す素子になる、といえるかと思います。
マスコミがある題材をことさらエキセントリックに編集し、そのダイジェスト版をみて事件の全容を知った気になっている私たちの状況に似ているかも知れません。
それが良い悪いと言うよりも、私たちの脳の中はそのようにして何かを切り捨てながらイメージを保持しようとする癖があると言うことなのです。
そのように作り出された意識というものは、いわば脳の中を偏らせて(事象を切り取って保存しているわけですから)作り出した認識に基づく反応系ともいえ、別のシチュエーションでは整合性がとれなくなるのも、言うなれば必然的なことであり、本来はきわめてあやふやなものであると心得る必要があります。

かような、本来生命の存続を第一義とした反応系は自由意志と呼ぶべきなのでしょうか。
個体差やシチュエーションの違いが作り出す選択幅は存在しても、意識という後追い反応を「自分の選択がそう指示するのだ」と、まるでどこからかの授かり物のようにあがめるのは(現時点の研究結果を疑いようのないものと前提するなら)論理的ではないかも知れません。
上記の小池氏もそのように考えているようで、そういった観点から見るとストレートすぎるような内容も説得力を持ってきます。

「いやいやそんなことはないから。今“感じている”自分は否定できないでしょ?それこそが自我であり自由意志でしょうが」
ある人はそう主張するでしょう。

これについても少し考えてみましょう。

意識を議論するとき問題を複雑にしがちなのが、学習効果によって生じた反応経路が作り出す自我と呼ばれる何かを私たちが「自分の本体である」と勘違いしやすいことでしょう。
制限された脳内回路が作り出す制限され偏向したイメージの集積。
そんなものが実体を持つ私たち自身なワケがないのですが、なぜかそれを後生大事にしていまい、さらには死後のそれの行方までが気になって仕方が無い。
私たちの悩みの多くはこのようないびつな認識から生じると言っても言い過ぎではないはずです。

上記の小池氏はまた「私たちは存在もしない自我を存在するかのように錯覚させる」ために絶えず自我に関する苦痛を受け取り続けていると書いています。
私たちは基本的にマゾヒストなのでしょうか。

これも私たちの脳という臓器の特性が関係してます。
人の脳はきわめて高度に特化した反面、制御が集中しすぎているというのが実情です。
脳や脳幹といった中枢神経系がなければ呼吸一つ出来ないことからもわかりますが、これにさらに複雑な社会システム、これは原始的な集団から現在の私たちの生きる社会まで共通したものですが、を利用しなければならないという、他の動物とは一線を画す使われ方を強要されることが過負荷に拍車をかけています。
その負荷たるやどう表現したらよいかもわからないくらいですが、そういったきわめて厳しい使用状況を常にくぐり抜けるため、学習効果を最大限に利用しているのが私たちの脳という臓器なのです。

学習効果は大脳基底核のところでも書いたように、出来るだけ効果的な行動を無意識下で出来るように設定するためのチャート作りのようなもので、慣れてくればいちいち記憶を引き出さずとも実行できるようにすることが目的だといえましょう。
このチャート作りは当然一つではなく、様々な身体感覚の元、同時並行して刻み込もうとすることが常となっています。
身体感覚と一体になって作成されたチャートは、その結果が良好であるほど報酬系の反応と連携して私たちの中で強固なものとなってゆきます。

たとえば私が「朝運動をしたら調子がよい」という経験をしたとします。
これが続くうちに私の中で「朝は運動をするものである」となり、しまいには(私が十分に視野狭窄ならば)「朝の運動を欠かすと病気になる」という強迫観念を生み出すことになるでしょう。
そしてそれは「運動は人間に欠かせない」という“信念”めいたものを記憶に上書きする結果を招くはずです。

このように

・ある事象を身体感覚や報酬系の反応に基づいて、変更した形でイメージを固めた結果生じた何か

が自我というもので、その行動効率の良さやドーパミン作動性神経の作り出す達成感がもたらす快感が私たちを虜にします。
言うならば「脳という臓器を喜ばすための近道をするための流れ」が自我の根本であり、私たちはついついそこに居着いてしまう傾向があるのです。

小池氏の論を借りるなら、喜ぶという反応も実は苦という刺激の上に成り立っている反応であり、それらもまた我々の心を釈迦の言う無明に落とし込む要因となり得るようです。

総括してみると

・私たちは生きるためにより効率のよい状況を(個体差や周辺環境による差こそあれ)選択したがる
・それは脳という臓器がそのようにリアクションするためであり、意識という学習されたメモリー内データが先行するからではない
・自我はその過程で生じる「脳のためのご褒美を引き出す近道」の案内図。
・その案内図は私たちがその快感故に拘泥しがちな、しかし実体を持たない一過性の反応群である

といえそうです。

一方、私たちの生理はいつも万全完全というわけではなく、しかも社会的なバックアップなしでは覚りにいたる道を歩くことが出来ないという釈迦の結論を信じるならば、これらの議論にどのような意味があるのでしょうか。

これは個人的な意見なのですが、やはり無明という心の暗闇の中にいるのはつらい。
出来ればさっさと脱出したいというのがほとんどの人の本音でしょう。
しかしそれは言うほど簡単ではなく、事実上無理と断言してもよいかも知れません。

同時に苦の原因やそれに至るメカニズムを知ることで、渦中にいるが故の不安や恐怖は少し薄まるかも知れない。
仏陀の哲学に触れ始めてから私はそう思えるようになりました。
勉強しても瞑想しても基本的に「一切皆苦」は変わらない。
しかし「それが私たちの生というものだ」とはいえる。
今はそんなところでしょうか。

今私に理解できたのはここら辺までですが、やはりまだわからないことはたくさん存在しています。
単に私にわからないことから先端の研究者でさえ手探りを続けているコトまで幅広いですが、ともかく説明のつかないことが山ほどあるというのが現状のようです。

釈迦はひたすら自分のために考えた末に悩みの正体を整理し、普遍的な方法論としてまとめ上げましたが、現代の脳科学はその上を行くのか。
今の私の興味はそこのところにあります。

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