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仏に逢うては・・・

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仏に逢うては・・・

基本的にヒトの信じているものを疑うという、へその位置が真正面ではない私ですが、禅宗のこの言葉というか考え方には賛同します。

正しくは「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん」という文章らしいですが、なにやら物騒な言葉の羅列に見えます。
当たり前ですが短絡的に実行することを推奨しているのではありません。
色々解釈があるようですが「あなたが当たり前だと思っているその考え方を疑って壊したとき、初めてあなたの実態が見えてくるよ」というようなことらしいです。

この仕事に入ったとき、独立したとき、治良師としても経営者としても悩んだとき、その時々に応じて自分の“当たり前”を疑ってかかり、そして捨てざるを得ませんでした。
学生はかくあるべき、経営者は・・・と、それまでの自分を通して考えた理想像を作っていたのですが、それ自体は人間が生きる上であまりに前に行っていることの一つだろうと今でも思っています。
どこかに線引きをして、前提を作らないとヒトはなかなか納得できないものですから。

問題なのはそれをいつの間にか金科玉条とし、“幼い”自分がつくった世界やその見方から出られなくなっていて、しかしそれまでのやり方考え方では困難な状況になったとき、いったんそれらから離れなければならないということでしょう。
言うは易しですが、ほとんど自分の一部となっている枠組みを崩したり俯瞰するのはそれほど容易ではありません。
そこに「苦悩」なるものが生まれるか、本来ノーテンキな私にはよくわかりませんが、違う枠組みを作るときには多少の工夫が必要になるのは間違いないようです。

ではそれが治良にどのような不都合を生じさせるのか?

ここでの問題はそこですが、実は大変関わりがあります。
診立て、という行為があります。
それは「今この人はこういうことで困っている」と言うことを“決定する”ための行為、ということになります。
私達の業界では「苦痛から逃れるため」にあれこれするのが通常なので、「苦痛の原因」がどんなものであるのかを探る、ということと同義になります。

すごくわかりやすいケース、たとえば体の一部が破損しただとか、はっきりとした外傷があるとか、あるいは毒物による問題など、間違いなく原因が特定できる場合はあまり悩まず(上記は私の専門ではありませんが)処置を決定することができるでしょう。
しかし私が扱う問題はその原因の特定が非常に困難であることのほうが圧倒的に多いのです。
そんなところに「私の知識と経験からすると原因はここ!」と言ってみたところで、確実にまとを得ているという保証はどこにもありません。
むしろ私が自分にわかりやすく分類できる問題の方が少ない、と見るべきでしょう。
もちろん分類できないことでも何とかなってしまうケースもかなり多いのですが、いずれにしても専門性が高いと言うことは、その奥行きが深い代わりに対応できる幅は狭くなるということになります。

経営の形態によってはそれでも問題がないのかもしれませんが、市井の一治良屋としてそれでは困る、ということの方が多いのは事実です。

枠組みを作ると言うことは、現実からある部分を切り取ることです。
その中で整合性を持たせるのが「論理」です。
その論理にしたがって、現象を説明して理屈立てるのが「理論」です。
そして(特に私達の業界では)この理論なるものはたびたび偏って伝えられ、そして間違った使われ方をすることが多いのです。

ある症状を抱えてきたヒトを、体のゆがみ(が原因として)と結びつけて考えようとする。
同じ症状を心の抑圧の結果として考える。
あるいは食べ物が原因であると主張してみる。

現実という広大無辺で刻々と変化している、しかも未踏破の領域が多いところで「俺は石の専門家だから、この星の石を調べてみた。その結果、ケイ素主体の石が多かったから、この星はケイ素でできている。だからケイ素を制覇することはこの星を制覇することだ。」というようなものでしょう。

間違ってはいないかもしれませんし、ある面では正しい意見であるのでしょう。
やってみたらうまくいくという可能性も結構あるかもしれません。

でも水もあるでしょうし、大気もきっとあるでしょう。
放射線の計測はしたのでしょうか。
生物の観察はもうすんだ上での意見なのでしょうか。

きっと違います。
専門家はどうしたって自分の専門分野という色眼鏡でしか物事を観察しません。
極端な物言いをすると、自分の専門以外は目に入っていない可能性が非常に高い。
そんな見方は素人との差にもなりますが、全体像をありのままに観察しづらくなるという一面も持ち合わせます。

私達は自分の専門性というフィールド内で物事を説明しようとします。
つまりそれこそが専門家にとっての「仏」である、というわけです。
「これこそが俺の探し求めていたものだ」と思った瞬間、それを超えることが難しくなります。

悟りとは物事を見極めることにあらず、見極めを壊し続けることなり。
誰の言葉かはわかりませんが、大変すばらしい言葉であると思います。

自分の中の仏(絶対性)を疑い壊し続ける。
その先に見えるものが常に必要なのだろうと、最近特に思います。

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