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アダルトチルドレン

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アダルトチルドレン

略してACなどと言ったりもするようです。
詳しくは検索をかけていただくとして、治良屋としての立場から考えて見たいと思います。

臨床心理学については、まあほとんど素人みたいなものなのですが、実際問題としてこの手のトラウマティックなストレスが症状の背景に隠れているケースは、本当に驚くほど多いなと感じています。
といいますか外傷などを除くと、逆にトラウマあるいは現在のストレスが関与していない問題を探す方が難しいかとも考えます。
正確には直近のストレスよりも、その症状が出現する課程においての関与ですが、ほとんど必ずと言っていいほど関わっていると私は感じています。

ただそれの割合や程度は様々で、すべてを一元的に扱うのはこれまた無理があるわけです。

システムに余力のある場合、たいていは症状が激しく出ている時期ですが、体がまだ心理的ストレスに抗っていることを示しているので、比較的きっかけを作りやすくかつ反応が出やすいケースが多いようです。
見た目はやっかいだが治良に対して良い反応を返してくれる。
治良屋としては治良を進めやすいケースと言えるでしょう。

対して症状は比較的穏やかなものの、常時違和感がつきまとい離れず、時として深刻な状態になりやすいタイプ。
これらはストレスに対して長期間過剰順応してしまった可能性があります。

これをお読みになっている方でも、「いらいらはあるけど何でかな?」と思われたことがありませんか?
事実上“健康”な人の中にも、そのような経験の一度くらいはあるはずです。
その原因があとからでもわかるようなら問題はありません。
しかし、感情の揺れや衝動があるにもかかわらず、しかもそれが健康に影響を及ぼすレベルで、原因となりそうな心理的要素が見つからない場合、ストレスのでどこをご自分で隠蔽しているのかもしれません。
みたくない、考えたくない経験を無かったことにしてしまううちに、本当に意識という脳の機能面から削除してしまったわけです。
しかし脳からそれを追い出してみても、体という無意識領域にはしっかりメモリーしていて、ことあるごとに心身のスムースな働きに対してブレーキをかける要因となり得ます。

もちろん私たちには「冗長性」という強い味方も備わっていますから、放っておいてもそれなりに安定した人生を送れるケースも多いでしょう。
いや、むしろそのパターンの方が多いのです。
今までは。

しかし今はそうとも言えない、わずかな失敗がきわめて重い足枷となってしまう場合も少なくありません。
一つは制度疲労がこの社会全体に蔓延して、柔軟性の少ない状態になっていると言うことも関係しているかもしれません。
良くも悪くも「まあまあ・・・」で済ますことのできた昭和時代と違い、たった一つのミスが致命的な評価を作るきっかけになってしまう。
昔からそういうコミュニティーもあったのでしょうが、社会全体が効率を上げてきた結果、それがほとんど全部になりつつあるような気がします。

最短で答えが出るシステムは脆い。

これはこのサイトでも繰り返し書いたことです。
一般に効率が良いと言うことはその中間プロセスが少なく、起動=結果もしくはそれに近い作動状態のことです。
同時にイレギュラーだらけのリアルワールドでは、特殊な場合は除いてこれは非常に危険なことでもあります。

まず「ロスがない」ことを前提に考えること自体、相当な無理があると言わざるを得ません。
クリック一つ間違っただけで、社会面に載るほどの損失が出てしまうというシステムは、便利であることは認めるものの、ミスが当たり前の生物が扱うにはリスクが高いと考えるべきでしょう。

そのような環境下では「ミスは許されない」と常時緊張をしているわけですが、すでに心身に相当な負荷を抱えているACと呼ばれる人たちにとっては、これはかなりの重労働のように思えます。
ましてや特定のシチュエーションに反応しやすい、そんな人たちは、ことあるごとに無理が生じてしまうでしょう。

そのようなケースをたくさん見ているうちにある傾向に気がつきました。
不安定な中で安定を作り出している、とでも言うのでしょうか。
考えて見れば当たり前なのですが、どんな状況でもおおむね人間は順応する生き物であると言えます。
ですから、多少の健康被害程度ならそのまま自分のものにしてしまっても不思議はないのです。
もしくは「そうせざるを得ない」のかもしれません。

いずれにしても長い間に培われた“生きるための工夫”によって得られた安定は、そう簡単に軌道を変えることなどできるはずもありません。

ではどのような対処をすべきなのか。

実を言えばトラウマを抱えていない人というのは、成人に限って言うと事実上いないと言っても過言ではありません。
そしてそれなりの数の人が折り合いをつけて生活しているわけです。
その中には私ごときでは想像もつかないようなご苦労を経験されている方もおられるでしょう。
それがトラウマになっていないかというとどうもそんなこともない。
しかしそのような方たちにお話を伺うと「全部うまくいかなくてもいいから、とりあえず目の前の問題を解決することが肝要」とおっしゃいます。

悪い言い方をするなら「妥協」をしながらでも前に進むことだと私は考えていますが、ACと診断されて治良にいらっしゃる方たちは、この妥協がきわめて苦手なのです。
全か無。
この二択しかないのも心理面の柔軟性を欠いた人たちの特徴なのですが、そこから離れられないのこと自体が最も困ったことなのでしょう。

そのためにも成功経験を一つずつ積む。
そうしているうちに内部の問題を相対的に小さくできるそうなのです。

そしてこれを始めた方は、不思議と治良によく反応し始めます。
最初はなぜそうなるのかもわからず、またそのような「プラセボ反応」と思われることにはあまり興味がありませんでした。
しかし今は治癒の本質がその「プラセボ」にあると考えていますので、強い興味を持って日々観察を続けています。
治良も本質論、あるいはカイロプラクティックで言うところのメジャー論だけを取り上げるのではなく、その場におけるストレートなカウンターも本質的な治癒反応を引き出すきっかけになり得る。
それは今私の中で確信になりつつあります。

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